酉松会(ゆうしょうかい)とは、
一橋大学サッカー部の活動を支援するOBの団体で
OB・現役有志の寄稿による「酉松会新聞」の発行、
OB戦やフットサルの開催など様々な活動を行い、
当ウエブサイトで公開しています。

甦る! 商大サッカー部の古写真 ①

2023年2月12日  タグ: 沿革   コメントする

〜 福本 浩(昭52卒 酉松会新聞編集長)記 〜

令和5年を迎えて間もない1月13日の夜、
私の元に、こんなメールが届いた。

“初めまして、酉松会のホームページを偶然見つけ、
ご連絡差し上げました。私の伯父に当たる人物が戦前の商大出身で、
サッカー部に所属していたようです。現在家族の古いアルバムの
写真の修復をしており、伯父のアルバムの中にサッカー部の写真を
見つけました(昭和13−17年?)。そのうちの1枚は酉松会の
「発掘!戦前のサッカー部の写真」のページにあった写真と同じでした。”
・・参照:〈発掘!戦前サッカー部の写真〉

“甲子園で行われたらしい大学選手権のハーフタイムの写真や、
紀元2602年(1942年 / 昭和17年)の選手章もありました。
現在まさに修復中なので合計何点になるかわからないのですが、
酉松会の資料編纂のお役に立てるようでしたらご一報ください。”

メールをくれたのは、山田 あきこさん。
彼女の伯父の名前は、山田 久寧(ひさやす)。
部誌『蹴球』の名簿を見ると、確かにその名があった!
しかも私の出身高校の大先輩でもあったのだ。何という不思議な縁!!
以下、山田先輩と記す。


*入部:昭和12年(1937)
*出身高校:旧制宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高校)
*現住所:一橋寮
*帰省先:福岡県小倉市上富野

あきこさんによれば、ご先祖は愛媛の武家。
祖父(山田先輩の父)の代から東京に住んでいたが、
陸軍将校だった祖父は “ありえないレベルの転勤族” だったので、
子供たちは小学校だけで3回か4回変わっているという。そして、
伯父が中学入学のタイミングで赴任したのが栃木県の宇都宮。その後、
祖父は福岡県の小倉に転任したが、すでに高学年になっていたので
転校せず、宇都宮中学から大学を受験したのではないかと推測している。

山田先輩は上記『蹴球』四号に入部の動機をこう綴っている。


(原文ママ)
“大分時期を過ぎた頃誰の推めでもないのにヒョッコリと入部した。
七月の語學試驗も過ぎた頃寮生慰安として寮對抗の試合があった。
この時僕はルールも何も知らないのにハーフとして加はった。
で眞夏の暑い頃汗を流してグラウンドを走り廻る快味を始めて知つた。
何とその壯なる事よ。何とその男性的なる事よ。一度その力を知った僕は
日一日とサッカー戀しの思ひを、募らせるだけだった。折も折
父に「體を丈夫にしろ。ヒョロヒョロの體では實社會の落伍者だぞ」と
云はれて益々サッカーに對する愛戀の情に拍車を加へた。
かくて僕は入部した。本科へ進んでからの激烈な勉學に且つ
實社會へ行つてから最後の勝者たるに堪へる體格を作らんが爲に ”

実は、あきこさんはグラフィックデザイナー。
忙しいお仕事の合間を縫いながら、古ぼけた写真を一枚一枚
丁寧に修復して送ってくださった。しかも写真の裏には山田先輩が
記したキャプションがあり、いつ、どんな時に撮られたかがわかる。
これが本当にありがたい。以下、年代を追って紹介していこう。

【昭和13年 1938】
まずは酉松会のページにあったものと同じ写真から。


*10月末 本科三年 後藤 岩崎 二兄送別

修復された写真は驚くほど鮮明で、
当時のサッカー部員たちの表情、ボロボロの練習着にシューズ、
かなり歪んだ皮製のボールまでもが、生き生きとよみがえっている。
『60年史』によると、戦時中に使っていたボールは牛皮ではなく
豚の皮だったらしいが、写っているのは豚皮のボールか!?

こちらは11月6日、関東2部リーグvs立教大学戦後の写真。
裏には最強の敵である立教を2-0で破り、“一同踊り上って喜んだ” とある。
軍服の男性(応援に来たOBか)が2人いるのが当時の世相。
そんな中でリーグ戦が行われ、しかも笑顔があることに少しホッとする。
試合会場は表参道駅の近くにあった「青山師範学校(現東京学芸大学)」の
グラウンドだが、後ろの建物の窓から顔を出す学生や洗濯物が見える。
学生寮か? 鮮明な写真のおかげで、いろいろ推測できるのが楽しい。

次は、11月に小平の部室前で撮影された写真。
関東リーグ2部で優勝し、1部に昇格した年だった。
何の大会かは不明だが、たくさんのカップを誇らしげに持っている。
拡大してよく見ると、窓の桟に「サッカー」の白い文字がある!
部室名を表示したものだと思うが、それが「蹴球」ではないことが興味深い。
ごく自然に「サッカー部」と呼んでいたのだろう。85年も前の部員たちなのに
急に親しみが湧いてくる。お〜い!と声をかけたくなる。

【昭和14年 1939】
こちらも11月に小平の部室前で撮られた集合写真。
手ぬぐいを姉さんかぶりした部員が多くホウキもあるので、
大掃除をしたのかもしれない。また部室の前に草ボウボウの空き地がある。
実は、これがヒントになり長年の疑問が解けた。当時の部室は
小平予科分校のどこにあったのか、という疑問である。


それは、下の航空写真の右端中央にある建物だった。
南側に広めの空き地があるし、昭和12年度の「予科建物配置図」に
〈仮食堂及部室〉と記された建物なので、おそらく間違いないと思う。
この〈部室〉は戦争末期に小平分校を接収した軍によって撤去されたため、
戦後は南隣りにあった〈生徒控室〉が長く部室として使われた。


こちらは中野の「辰美野」という店で行われた卒業生の送別会の写真。
我々の時代「追い出しコンパ」と呼んでいた飲み会だ。
商大時代の写真によく登場する店で、サッカー部は常連だったようだ。
徳利とお猪口を手に皆ご機嫌である。

ただ、この写真に少し疑問が・・
山田メモには “14.11.21 送別会 後藤 岩崎” とあるが、『60年史』にも
同じ写真があり、キャプションは「昭和13年 納会」となっている。
前列中央に座るスーツ姿の二人は、上記の小平グラウンドの写真
“昭和13年10月末 本科三年 後藤 岩崎 二兄送別” の二人と同じで、
昭和14年の春に卒業しているはず・・どちらが正しいのか?
これは、山田先輩に聞かないとわからない(笑)

【昭和15年 1940】
1月27日、予科分校の本館の玄関前で撮られた集合写真。
山田先輩を含む予科3年部員7名の送別会で、前列が3年生、
その後ろに1〜2年生らが並んでいる。当時は予科チームのリーグ戦や
定期戦があったが、何のカップを手にしているのかは不明。
参考までに3枚目の写真は、山田先輩のアルバムにあった昭和12年撮影の
予科本館。まだ竣工して3〜4年しか経ってないのでメチャメチャ綺麗だ。
こんなお洒落な丸窓があったとは・・まったく記憶にない(笑)


余談だが、商大時代は学帽と学生服が制服だった。
戦後、一橋大学になってもしばらく続いていたようだが、
昭和30年代半ばの卒業アルバムぐらいから次第に制服姿が消えていく。
いつ、正式に制服廃止となったのだろう?

以下、次号に続く。

甦る! 商大サッカー部の古写真 ②

2023年2月12日  タグ: 沿革   コメントする

〜 福本 浩(昭52卒 酉松会新聞編集長)記 〜

【昭和15年 1940】
この年は、我が部の101年の歴史の中で最上位の成績を収めた年だった。
関東1部のリーグ戦で早稲田・慶應・東大・明治の強豪に伍して戦い、
優勝の慶応に次いで2位を早大と分け合ったのである。
『100年史』編纂の時に写真を探したが、2枚しか見つからなかった。
しかし、山田 久寧(ひさやす)先輩のアルバムには多数残されていた。

まずは、昭和15年度シーズンの栄えあるメンバーの写真から。
“15.11.20 小平グラウンド 卒業生記念の為” とキャプションにある。
前列の8名が翌春に卒業する本科3年生。『蹴球』八号にも同じ写真が
掲載されているが、修復された写真の解像度が凄い! 拡大すると、
高橋道太郎先輩の頭のヘアバンド(戦前からあった!)、
ボロボロの膝当てにシューズ、ボールのほどけた結び目までわかる!!
ところで本科1年の山田先輩は・・“予は足を痛めて見学中” だった。


今も続く伝統の「三商大戦」の写真もある。
12月25日vs神戸商業大学戦のハーフタイムとグラウンドでの集合写真。
『蹴球』八号の戦績を見ると、前半2-2、後半1-1の引き分けで、
“前半強風下の爲押され気味 後半押しまくりチャンス多きも決まらず”。
選手や観戦に来たOB?も皆暗い表情で、納得がいかない試合だったようだ。
試合会場は「甲子園」とあるが、野球の甲子園球場ではなく、
「甲子園南運動場」のことで、関西屈指の芝生の競技場だった。
→ 参照:〈甲子園南運動場〉

神戸商業大学との試合後に「全朝鮮対関西戦」を見学(下左 詳細不明)。
翌26日には神戸三宮駅の近くにある「東遊園地」のグラウンドで
大阪商科大学と対戦。右の写真は、試合後に遊園地内で撮ったもの。
神商大戦のドローから奮起したのか、9-2で大勝した。ただし、
『蹴球』八号の戦績ではそうなっているが、写真裏の山田メモは、
“11-1で勝つ”。どちらを信用すべきだろうか(笑)→ 参照:〈東遊園地〉

珍しい写真がある。
この三商大戦では大阪の「スポーツマンホテル」に宿をとり、
夜は麻雀を楽しんでいたようだ。すでに日中戦争が始まっていたとはいえ、
日本国内には、まだ余裕があったということか。

ところで山田先輩は入部以来、真摯にサッカーと取り組んできたが
ずっとサブに甘んじ、リーグ戦に出たことがなかった。
その思いを部誌に綴っている。(原文ママ)

「一日蹴球を想ひ感有り」・・『蹴球』七号(昭和15年刊)
“文樂と蹴球部の行き方には関係がある。二人なり三人で
夫々、顏を手を足を、受け持って一つの人形として演ずるのである。
三人が實際に一人の人として動かなければ、人形は生きて來ぬ。
三人の間の氣合の合致が何よりも重大な契機になる。
左手の役をするべきウイングが己の職責を果さず、
足を勤めるサブが、試合に出場せざるの故に必死の闘を為さないならば
吾等のチームは一個の人形として完璧の演技を示さぬのである。
たゞ至らざるサブの身を嘆くのみ。”

「ゆらめき」・・『蹴球』八号(昭和16年刊)
“先人の蹈み分けた道を尋ねてたゞ一途に經て來た五年は
詩ではなかった。繪ではなかった。
撤しきれぬ悔恨と徹しきらうとする努力の墨繪卷であつた。
岐路に出會し迷路に蹈み込み乍らやうやつと此處まで辿り着いた。
不徹底な者を見ると我知らず「文句を言ふな實行しろ」と怒鳴りたい。
一途に生きんとすることが眞實であるならば、
私は蹴球することに於て眞實をみたい。”

昭和16年の春、山田先輩は父を亡くす。
リーグ戦でプレイする姿を父に見せることはできなかった。
受け止めきれない哀しみを、この寄稿の中で綴っている。

“私は本春愛する父を失った。暗い。
すべて暗い破烈した日の惱みと惡夢は連續して私を苦しめた。
私は父の最後の息を見届けた限りに於て死の傍観者であった。
死は最後の瞬間の平和であった。何の感覺も持たない之の世から
彼の世への靈魂の移轉は徹底しつつある貴い姿であった。
併し死そのものは私のものではなかった。私は冷たい傍観者であつた。
自ら體驗しなければ理解されない死は私の態度を冷笑するのみであつた。”

【昭和17年 1942】
前年12月に太平洋戦争に突入し、次第に戦時色が強まる中、
大学の卒業が9月に繰り上げとなり、毎年秋に行われていたリーグ戦が
春に実施されることになった。そのリーグ戦の「選手章」も残されている。
これを持っていれば入場料は無料。ちなみに「2602」とは、
初代神武天皇が即位した年を元年とする明治政府が定めた暦で、
昭和17年は「皇紀2602年」に当たる。

そして、まさにこの年に最上級生となった山田先輩は、
ついに念願のリーグ戦デビューを果たす。
写真は5月23日に明治神宮外苑競技場で行われた3戦目の対慶應戦。
CKを蹴っている背番号7の選手が、山田先輩である。
しかし、この試合、0-5で大敗してしまった。


“敵 C.K.3本のC.K.中 2本后半に決められる ダラシない試合だった
慶応の溌剌に比して何といふ情けなさ 帝大戰から以后 落ち目になった商大
誰の罪でもない 皆で 苦境を乗り切らう”

“俺は此の試合を最後にリーグ戦から退いた
4月29日のリーグ第一戦対早稲田に(1-1/3-1)と勝った (不明) は
未だに忘れられぬ 大学リーグ一部にレギュラーとして初陣
始めての神宮には余り補はれず 好センダーリング 最後の一点は
俺が中盤で拾って少し持込み左へ大きく廻すを永倉ペナルテイラインから
逆隅に鮮に決めたもの 一生忘れられない”

山田先輩にとって最初で最後のリーグ戦は、
初戦の早稲田に4-2で勝利したものの、次の東大戦以降は3敗1分。
リーグ最下位で関東2部から1部に降格という残念な結果で終わった。
そして9月、山田先輩は、6年間通い続けた小平のグラウンドを去る。

卒業後は海軍に入隊。
『蹴球』九号の名簿には「呉局気付軍艦八雲」「横須賀局気付」
「板橋部隊山田隊」などとある。軍艦八雲に乗務し
日本沿岸の警備にあたっていたようだが、詳細はわからない。
そして・・『60年史』の名簿には、悲しいかな、
「↑山田久寧 昭20.12.26(戦病死)」と記されているのみ。

最後に、昭和17年6月1日に小平グラウンドで
卒業アルバム用に撮られた2枚の写真を紹介したい。



“対立教戦前 卒業アルバム用の為に八百長で写す タックルは村木
俺が之の写眞では負けてゐる 一瞬 止まってゐるように見へるのは
dribble して來てコロブ前の一時”

波乱の時代を生きた山田久寧先輩、そして同期の先輩方に、
謹んで哀悼の意を捧げるとともに、貴重な写真を修正し
提供してくださった山田あきこさんに心より感謝を申し上げたい。

OBOG総会のお知らせ

2023年1月10日  タグ: お知らせ   コメントする

酉松会会員各位

良い年をお迎えのことと思います。
来たる1月15日(日)17時〜19時の日程で
ズームによるOBOG総会が開催されます。
リンク先はすでにメールで配信されていますが、
もし届いていなければ、私にご連絡ください。
多くの方のご参加をお待ちしています。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)
fukug1954@db4.so-net.ne.jp

昨年6名の大先輩が、ご逝去

2023年1月3日  タグ: 訃報   コメントする

コロナ禍3年目となる令和4年は、
ロシアのウクライナ侵攻、地球規模の異常気象と自然災害、大幅な円安、
カタールW杯での日本の躍進など、本当に様々なことがありました。

この年、石原慎太郎先輩(昭31卒)、浅井浩夫先輩(昭32卒)、
鎗田良昭先輩(昭35卒)、吉田弘司先輩(昭38卒)、
中澤泰二先輩(昭44卒)、渡辺 恵先輩(昭45卒)が逝去されました。
謹んでお悔やみ申し上げます。



小平人工芝Gで念願のOB戦!

2022年12月5日  タグ: トピックス   コメントする

10年以上前から夢見ていた、コロナ禍で延び延びになっていた、
小平人工芝グラウンドでのOB戦が、昨日やっと開催されました。
天気も良く、暖かく、芝の感触を楽しみました。
現役の皆さん及び酉松会幹事の皆さんに感謝です。





村上信勝さん(昭36卒)や有田 稔さん(昭44卒)らを筆頭に
様々な年代のOBと彼らのお子さんまで集まりました。
メールと写真でしか交流がなかった若手?OBたちにも会えました。
(名前は記憶あるが実物と一致しない 笑)










OB戦後は、私と近い年代の0Bたちと国分寺のバーミアンで
少し早い忘年会。W杯での日本躍進の話題で盛り上がりました。
配膳ロボットの登場にも新時代を感じました(笑)。


来年度こそ現役選手のリーグ戦を小平で応援したいものです。
みなさま、よいお年をお迎えください。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)