酉松会(ゆうしょうかい)とは、
一橋大学サッカー部の活動を支援するOBの団体で
OB・現役有志の寄稿による「酉松会新聞」の発行、
OB戦やフットサルの開催など様々な活動を行い、
当ウエブサイトで公開しています。

沿革

「小平G建物配置図」の改訂とお詫び

2023年11月13日  タグ: 沿革   コメントする

皆さま

左サイドバーに掲載していた「小平G建物配置図の変遷」に
石神井時代の建物配置図や新たな写真を加えて改訂しました。
「小平campus1923-1974」と「小平campus1975-2023」です。

併せて「国立campus1920-1974」と「国立campus1975-2023」も
編纂し掲載しました。お時間のある時にご覧ください。
現役時代の記憶や思い出を呼び起こす一助になれば幸いです。

なお、今回の編纂作業をする過程で、「100年史 Vol.1 沿革」に
掲載した写真に間違いがあることが判明しました。
下記の大正12年(1923)の関東大震災で廃墟と化した
神田一ツ橋キャンパスの写真です。
奥に写っている高い建物は、如水会館ではなく図書館でした。
すでにWeb版は訂正しましたが、書籍版は直せません。
この場を借りてお詫び致します。

(誤)                 (正)

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)

南の島に散った山田先輩を偲ぶ

2023年6月15日  タグ: 沿革   コメントする

〜 福本 浩(昭52卒 酉松会新聞編集長)記 〜

2月の記事「甦る!商大サッカー部の古写真」の続報。
ある資料から山田久寧(ひさやす)先輩の商大卒業後の軍歴が判明した。
「一橋いしぶみの会」の竹内雄介氏(昭49卒)が紹介してくださった
『五分前の青春 第九期海軍短期現役主計科士官の記録』である。

大日本帝国海軍で予算編成や武器・食糧の補給などを担う主計科要員を
育成する「海軍経理学校(明治40年創設)」が東京・築地にあった。
第二次大戦期、多くの大卒者がこの軍学校に入校し、わずか4ヶ月ほどの
即成教育の後、「短期現役主計士官」として戦地に送られた。
上述書は海軍経理学校の九期生たちが戦後に綴った文集である。
その中に山田先輩の写真(3列目の右端)、名簿にも名前があった!

名簿から推察するに、山田先輩は昭和17年(1942)9月に商大卒業後、
三井化学(内定していた?)には就職せず、即海軍経理学校に入校。
卒業後は21設営隊としてソロモン諸島最大の島、
ブーゲンビル島(現在はパプア・ニューギニア領)に配属され、
終戦の年の12月26日、帰国することなく現地で亡くなった。

驚いたことに、山田先輩とサッカー部の同期だった居川達一先輩と
主将の村木杉太郎先輩も海軍経理学校の九期生だった。
卒業後、居川先輩は台湾に赴任。村木先輩は駆逐艦「朝凪」の
主計長として輸送船団の護衛にあたっていたが、昭和18年に
奇遇にも山田先輩と出逢ったと『五分前の青春』に記している。



“昭和18年の末まで、横須賀・トラック・ラバウル航路はなかなか盛んで、
従って第二海上護衛隊の中心的存在であった朝凪は多忙を極めたのであった。
そのなかにはラバウル経由でブーゲンビルに向かう設営隊船団の護衛を
してみると、東商大同期の親友山田久寧がその設営隊の主計長であることを
知ったようなケースもある。連絡をとってパラオ仮泊中上陸し、
一夜の歓をつくしたことは思い出に深く残っている”

ブーゲンビル島は日本から5200キロも離れた南太平洋にあり、
四国の半分くらいの大きさの島である。この島に昭和18年に赴任したと
思われる山田先輩は、終戦までの2年近く、どういう状況にあったのか?

すでに昭和17年8月からソロモン諸島で連合軍の本格的な反抗が始まり、
日本の戦況は悪化の一途を辿っていた。昭和18年4月には
連合艦隊司令長官の山本五十六がブーゲンビル島の上空で戦死。
昭和19年に入ると玉砕相次ぐ状況となり、ソロモン諸島は完全に
後方に取り残され、補給や救援の道を絶たれてしまった。
昭和18年6月からブーゲンビル島で任務にあたっていた九期生の
高松敬治氏は、当時の凄惨な状況を『5分前の青春』に綴っている。

“昭和十九年のはじめから食糧の欠乏がひどくなってきた。
甘藷(さつまいも)畑をつくるにも、うっ蒼たるジャンブルを
ツルハシとスコップで開墾する原始的方法以外になかった。
甘藷は毎食サイの目に刻んで湯呑み食器に盛りきり一ぱい。
副食は甘藷の葉の塩汁ばかり。漁撈隊を編成して魚をとることも試みたが、
月に二、三回干し魚が食べられればいい方だった。

食べられそうな雑草はなんでも食べた。ネズミもセミもムカデも食べた。
開墾しているときに、小さなトカゲを見つけると、争ってとらえて、
引き裂いて口にほうり込むというありさまだった。
マラリアがひどくなれば脳をおかされる。
赤痢にかかれば下痢がとまらず栄養失調になることを免れない。
すっかりやせ衰えて杖をたよりに歩く姿は、さながら幽鬼のごとくであった”

山田先輩も同様の状況であったことは想像に難くない。
戦闘体験など一切なかった大学を卒業したばかりの若者が、
主計士官として何十人もの部下を率いながら、
このような極限状態に追い込まれたのである。
胸が痛いなどと軽々しく書くのもはばかれる。言葉がない。

そして、終戦。
赤道直下のナウル島で戦っていた九期生、宮部眞一氏の寄稿に
山田先輩の最期が記されている。

“敗戦降伏によって、われわれは豪州軍に捕らえられ、
ソロモンの戦場であったブーゲンビル島に運ばれて、タロキナの奥地の
キャンプから、さらにブインの沖にあるファウロの島々に分散収容された。
そこは島民も住まないマラリアの巣窟で、痩せ衰えた敗戦の将兵
(約18000余名-ソロモン地域および赤道以南の太平洋諸島)は薬を失い、
強制労働と1500カロリーの配給食糧に苦しみながら、
全員重症マラリアに罹り、その後三〜四ヶ月間に約半数以上が死亡した。
ここで同期の山田久寧主計大尉(24班)は病死された”

もう一度、久しぶりに『60年史』のページをめくってみた。
迂闊にも山田先輩、そして同じく戦地で亡くなった水島行先輩に、
昭和17年9月卒の同期が追悼文を寄せていることに今更ながら気づいた。
また昭和17-18年のサッカー部と戦争の関わりをまとめた寄稿も見つけた。
それらを抜粋し、以下に掲載する。

「戦争とサッカー部」・・ 安田興三郎(昭19.9月卒)記
昭和14年春、私がサッカー部に入った頃は、まだ日本も平和だった。
なにしろ私が「モロッコ」を観てカツキチになったのが1年後の春で、
当時は往年の欧米の名作はいくらでも名画座で観られたのである。
それもつかの間、16年の夏には早くも米画の上映制限が始まって、
無味乾燥な国策映画が巾をきかすようになった。
16年12月6日に浦高戦に備えて剣道場に合宿したが、
2日後の4時限目、講堂に集められて対米宣戦布告を知らされた。
大本営発表のラジオ放送に無邪気な拍手を送ったりしたものだ。
以下当時の日記からサッカー部に与えた戦争の影響を拾い書きしてみる。

【昭和17年】
4月7日 入営する早野広太郎先輩(昭16.4月卒)を東京駅にて見送る。
4月15日 水島行 甲種合格。本3、坊主頭ふえてかわいらしくなる。
4月17日 敵機、帝都に初空襲。
4月28日 宮沢力 甲種、山田久寧 第1乙種。
10月29日 折下章(昭16.4月卒)・松岡義彦(昭16.12月卒)両先輩、
軍服姿でグランドに現れる。(31日 折下先輩、満州へ)

【昭和18年】
1月27日 村木杉太郎・居川達一・山田久寧3海軍主計中尉の送別会
1月31日 出征先輩の武運長久祈願のため鶴岡八幡宮参拝
7月14日 故米山大三先輩宅弔問(昭15卒)
・・2月、ガダルカナルにてマラリアで戦病死の由
8月10日 一橋勤労報告隊(本科生のみ)北海道へ勤労奉仕に出発
・・1ヶ月にわたり千歳飛行場整備の土方作業で病人続出
9月26日 学徒体育大会はすべて中止となる。
10月2日 12月1日入営と発表されあわてる。
10月20日 兼松講堂にて出陣学徒壮行会。
・・国立音楽学校生徒の合唱、印象的
12月8日 開戦2周年記念日、この日の未明、妹結核にて死す。
我、喪を秘して夕刻、町内会の日の丸に送られ、一路横須賀へ。

*名前表記:筆者と山田先輩の同期、および年表に記載された先輩方

「水島行君を憶ふ」・・ 村木杉太郎(昭17.9月卒)記
昭和19年の初夏の候だったと思う。私が駆逐艦乗組を終えて
軍需省の軍需監理官として大阪勤務となって間もなくの或る日曜日、
夙川の下宿へなんの前ぶれもなく、全く思いがけず水島からの電話が
かかってきた。上本町6丁目の近鉄の終点にいるとのことであった。
早速道順を教え、時間を見計らって阪急線夙川の駅に出迎えた。
彼は少尉の襟章をつけ鉄兜背のうを背負って完全な武装で
南方に向かう途中立ち寄ってくれたのであった。

その晩は下宿の小母さんに頼んで酒の用意をしてもらい、
深更まで飲みかつ語らったのであった。
話は、最近の軍隊生活から始まったが、
落ち着くところは勿論サッカー部時代の思い出であった。
翌朝連れだって下宿を出て、夙川の駅頭で、彼は神戸に向かい、
私は大阪へと左右に別れた。それが二人の最後の別れとなった。
彼は間もなく門司から乗船、船団を組んで南下し、
比島沖で敵潜水艦の攻撃を受け、乗船は沈没し、
彼は若い一生を終わり再び遭うことのない世界へ行ってしまった。

水島行君とは予科の5組で入学当初から一緒であり、
教室では同じMのために前後して座り、教室を出れば部室、グラウンドで
また一緒という仲であった。彼は浜松一中時代からサッカーの選手であり、
我々同年の仲間の唯一の経験者として最初から綺麗なインステップキックが
できる新入生であった。

彼は人のことは気にせずひとりでさっさと実行するようなところもあったが、
一面何となくさびしがり屋のところもあった。
水島家の末弟としての育ちから滲みでるものであったろうが。
予科入校当初から煙草を吸い、帽子を一寸斜めにかぶり、
一見遊び人風の姿勢もあったが、根は純情であり、
サッカーでは全身をぶつけていくといった激しい情熱を燃やしていた。
昭和15年、本科1年の時の部誌には次のように記している。

“日ざしはもはや夏の合宿を思い起こさせる。汗が目に入り、土埃は渦をなして
きりきりと舞い上がる。たちまちにして泥人形ができた。ボールを追う格好、
蹴る姿、意気と熱、偉大なるかな蹴球の姿よ。リアリストもロマンチストも
またデレッタントもペシミストも総てが詩人となって、真を、美を追求す”

学生時代の彼の心の中には、怠惰な傍観者的心情と、サッカーに打ち込む情熱と
それらの生活を冷たく見つめる批判者としての心情の三者が常に同居し
葛藤を続けていたのではないかと思われる節がある。これらの心情の総てを
サッカーに燃やし尽くして若くして逝った水島のことを思うと
今も胸がしめつけられるような気持がする。ご冥福を心から祈る。

「山田久寧君のこと」・・ 藤塚亮策(昭17.9月卒)記
君は卒業と同時に海軍経理学校に入校、士官となってからは南方に転戦、
終戦をブーゲンビル島で迎えられた。祖国帰還に当って同島の南端から
北端の集結地まで人跡稀な熱帯のジャングルを部下を引率して山越えの途中、
病に犯されて壮烈な戦病死されたことを、小生復員後に伝え聞いた。
私共、当時としてはもとより死を覚悟して戦場にのぞんだわけだが、
同君の死が終戦後のことだけに返す返すも残念で堪らない。

君は私と同じように余り器用な方ではなかったが、それを補って
5年半の蹴球部生活を全うするために人一倍練習に励むと共に、
サブとして部の礎たらんと自らに鞭打つ責任感の旺盛な男だった。
敗戦に打ちひしがれた部下全員を一日も早く祖国に連れ帰るために
己れを捨てて、恐らくは無理に無理を重ねた結果が
彼を還らぬ人にしたものと思われる。

彼は首が長くネックとアダ名されていた。首を振り振り疾走するさま、
ライトウイングとしてカマキリが獲物を襲うに似た形でゴールに向かって
ヘディングする様子が、昨日のことのように想い浮ばれる。
彼のプレイぶりには猪突なところがあったが、心情は大変デリケートで
慎重だったと思う。彼は予科1年の夏の合宿から入部したが、それまでの間、
3つの部を遍歴するが納得がいかず、生れて初めて経験したクラスチャンでの
サッカーの試合出場を通じて蹴球部の存在を知って入部し、辛い練習と
先輩方にもまれているうちに次第に、己れの青春を注ぎ込む場所はここだと
体得するようになったと述懐していた。

彼はまた人一倍純情な男で、路傍の小さな花にも愛情を注ぎ
「行く末は誰が肌ふれん紅の花」とつぶやいていたのが耳に残っている。
また大変な勉強かでもあった。荻窪に下宿していたが、練習のドロンコ姿とは
打って変りキチンとした着物姿で正座して読書に励んでいた。
最初のうちは受験勉強から解放されて選択の自由が得られたこともあってか、
文学・社会科学・哲学の各分野に亘って乱読・多読していたようだが、次第に
的を絞って哲学系を主体としたものの精読と沈思へと移り変って行った過程が
彼の書棚に並ぶ蔵書からもうかがい知ることができ感心したものだった。

ともあれ、商大蹴球部の大きな支えである多くのサブの中でも
彼は傑出したサブの一人であったと思う。

まもなく終戦から数えて78回目の夏を迎える。
戦争で命を落とされた先輩、
そして・・サッカーに青春の情熱を捧げ
ア式蹴球部100年の歴史を支えてこられた先輩方に、
改めて、心からの哀悼と敬意を捧げたい。

甦る! 商大サッカー部の古写真 ①

2023年2月12日  タグ: 沿革   コメントする

〜 福本 浩(昭52卒 酉松会新聞編集長)記 〜

令和5年を迎えて間もない1月13日の夜、
私の元に、こんなメールが届いた。

“初めまして、酉松会のホームページを偶然見つけ、
ご連絡差し上げました。私の伯父に当たる人物が戦前の商大出身で、
サッカー部に所属していたようです。現在家族の古いアルバムの
写真の修復をしており、伯父のアルバムの中にサッカー部の写真を
見つけました(昭和13−17年?)。そのうちの1枚は酉松会の
「発掘!戦前のサッカー部の写真」のページにあった写真と同じでした。”
・・参照:〈発掘!戦前サッカー部の写真〉

“甲子園で行われたらしい大学選手権のハーフタイムの写真や、
紀元2602年(1942年 / 昭和17年)の選手章もありました。
現在まさに修復中なので合計何点になるかわからないのですが、
酉松会の資料編纂のお役に立てるようでしたらご一報ください。”

メールをくれたのは、山田 あきこさん。
彼女の伯父の名前は、山田 久寧(ひさやす)。
部誌『蹴球』の名簿を見ると、確かにその名があった!
しかも私の出身高校の大先輩でもあったのだ。何という不思議な縁!!
以下、山田先輩と記す。


*入部:昭和12年(1937)
*出身高校:旧制宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高校)
*現住所:一橋寮
*帰省先:福岡県小倉市上富野

あきこさんによれば、ご先祖は愛媛の武家。
祖父(山田先輩の父)の代から東京に住んでいたが、
陸軍将校だった祖父は “ありえないレベルの転勤族” だったので、
子供たちは小学校だけで3回か4回変わっているという。そして、
伯父が中学入学のタイミングで赴任したのが栃木県の宇都宮。その後、
祖父は福岡県の小倉に転任したが、すでに高学年になっていたので
転校せず、宇都宮中学から大学を受験したのではないかと推測している。

山田先輩は上記『蹴球』四号に入部の動機をこう綴っている。


(原文ママ)
“大分時期を過ぎた頃誰の推めでもないのにヒョッコリと入部した。
七月の語學試驗も過ぎた頃寮生慰安として寮對抗の試合があった。
この時僕はルールも何も知らないのにハーフとして加はった。
で眞夏の暑い頃汗を流してグラウンドを走り廻る快味を始めて知つた。
何とその壯なる事よ。何とその男性的なる事よ。一度その力を知った僕は
日一日とサッカー戀しの思ひを、募らせるだけだった。折も折
父に「體を丈夫にしろ。ヒョロヒョロの體では實社會の落伍者だぞ」と
云はれて益々サッカーに對する愛戀の情に拍車を加へた。
かくて僕は入部した。本科へ進んでからの激烈な勉學に且つ
實社會へ行つてから最後の勝者たるに堪へる體格を作らんが爲に ”

実は、あきこさんはグラフィックデザイナー。
忙しいお仕事の合間を縫いながら、古ぼけた写真を一枚一枚
丁寧に修復して送ってくださった。しかも写真の裏には山田先輩が
記したキャプションがあり、いつ、どんな時に撮られたかがわかる。
これが本当にありがたい。以下、年代を追って紹介していこう。

【昭和13年 1938】
まずは酉松会のページにあったものと同じ写真から。


*10月末 本科三年 後藤 岩崎 二兄送別

修復された写真は驚くほど鮮明で、
当時のサッカー部員たちの表情、ボロボロの練習着にシューズ、
かなり歪んだ皮製のボールまでもが、生き生きとよみがえっている。
『60年史』によると、戦時中に使っていたボールは牛皮ではなく
豚の皮だったらしいが、写っているのは豚皮のボールか!?

こちらは11月6日、関東2部リーグvs立教大学戦後の写真。
裏には最強の敵である立教を2-0で破り、“一同踊り上って喜んだ” とある。
軍服の男性(応援に来たOBか)が2人いるのが当時の世相。
そんな中でリーグ戦が行われ、しかも笑顔があることに少しホッとする。
試合会場は表参道駅の近くにあった「青山師範学校(現東京学芸大学)」の
グラウンドだが、後ろの建物の窓から顔を出す学生や洗濯物が見える。
学生寮か? 鮮明な写真のおかげで、いろいろ推測できるのが楽しい。

次は、11月に小平の部室前で撮影された写真。
関東リーグ2部で優勝し、1部に昇格した年だった。
何の大会かは不明だが、たくさんのカップを誇らしげに持っている。
拡大してよく見ると、窓の桟に「サッカー」の白い文字がある!
部室名を表示したものだと思うが、それが「蹴球」ではないことが興味深い。
ごく自然に「サッカー部」と呼んでいたのだろう。85年も前の部員たちなのに
急に親しみが湧いてくる。お〜い!と声をかけたくなる。

【昭和14年 1939】
こちらも11月に小平の部室前で撮られた集合写真。
手ぬぐいを姉さんかぶりした部員が多くホウキもあるので、
大掃除をしたのかもしれない。また部室の前に草ボウボウの空き地がある。
実は、これがヒントになり長年の疑問が解けた。当時の部室は
小平予科分校のどこにあったのか、という疑問である。


それは、下の航空写真の右端中央にある建物だった。
南側に広めの空き地があるし、昭和12年度の「予科建物配置図」に
〈仮食堂及部室〉と記された建物なので、おそらく間違いないと思う。
この〈部室〉は戦争末期に小平分校を接収した軍によって撤去されたため、
戦後は南隣りにあった〈生徒控室〉が長く部室として使われた。


こちらは中野の「辰美野」という店で行われた卒業生の送別会の写真。
我々の時代「追い出しコンパ」と呼んでいた飲み会だ。
商大時代の写真によく登場する店で、サッカー部は常連だったようだ。
徳利とお猪口を手に皆ご機嫌である。

ただ、この写真に少し疑問が・・
山田メモには “14.11.21 送別会 後藤 岩崎” とあるが、『60年史』にも
同じ写真があり、キャプションは「昭和13年 納会」となっている。
前列中央に座るスーツ姿の二人は、上記の小平グラウンドの写真
“昭和13年10月末 本科三年 後藤 岩崎 二兄送別” の二人と同じで、
昭和14年の春に卒業しているはず・・どちらが正しいのか?
これは、山田先輩に聞かないとわからない(笑)

【昭和15年 1940】
1月27日、予科分校の本館の玄関前で撮られた集合写真。
山田先輩を含む予科3年部員7名の送別会で、前列が3年生、
その後ろに1〜2年生らが並んでいる。当時は予科チームのリーグ戦や
定期戦があったが、何のカップを手にしているのかは不明。
参考までに3枚目の写真は、山田先輩のアルバムにあった昭和12年撮影の
予科本館。まだ竣工して3〜4年しか経ってないのでメチャメチャ綺麗だ。
こんなお洒落な丸窓があったとは・・まったく記憶にない(笑)


余談だが、商大時代は学帽と学生服が制服だった。
戦後、一橋大学になってもしばらく続いていたようだが、
昭和30年代半ばの卒業アルバムぐらいから次第に制服姿が消えていく。
いつ、正式に制服廃止となったのだろう?

以下、次号に続く。

甦る! 商大サッカー部の古写真 ②

2023年2月12日  タグ: 沿革   コメントする

〜 福本 浩(昭52卒 酉松会新聞編集長)記 〜

【昭和15年 1940】
この年は、我が部の101年の歴史の中で最上位の成績を収めた年だった。
関東1部のリーグ戦で早稲田・慶應・東大・明治の強豪に伍して戦い、
優勝の慶応に次いで2位を早大と分け合ったのである。
『100年史』編纂の時に写真を探したが、2枚しか見つからなかった。
しかし、山田 久寧(ひさやす)先輩のアルバムには多数残されていた。

まずは、昭和15年度シーズンの栄えあるメンバーの写真から。
“15.11.20 小平グラウンド 卒業生記念の為” とキャプションにある。
前列の8名が翌春に卒業する本科3年生。『蹴球』八号にも同じ写真が
掲載されているが、修復された写真の解像度が凄い! 拡大すると、
高橋道太郎先輩の頭のヘアバンド(戦前からあった!)、
ボロボロの膝当てにシューズ、ボールのほどけた結び目までわかる!!
ところで本科1年の山田先輩は・・“予は足を痛めて見学中” だった。


今も続く伝統の「三商大戦」の写真もある。
12月25日vs神戸商業大学戦のハーフタイムとグラウンドでの集合写真。
『蹴球』八号の戦績を見ると、前半2-2、後半1-1の引き分けで、
“前半強風下の爲押され気味 後半押しまくりチャンス多きも決まらず”。
選手や観戦に来たOB?も皆暗い表情で、納得がいかない試合だったようだ。
試合会場は「甲子園」とあるが、野球の甲子園球場ではなく、
「甲子園南運動場」のことで、関西屈指の芝生の競技場だった。
→ 参照:〈甲子園南運動場〉

神戸商業大学との試合後に「全朝鮮対関西戦」を見学(下左 詳細不明)。
翌26日には神戸三宮駅の近くにある「東遊園地」のグラウンドで
大阪商科大学と対戦。右の写真は、試合後に遊園地内で撮ったもの。
神商大戦のドローから奮起したのか、9-2で大勝した。ただし、
『蹴球』八号の戦績ではそうなっているが、写真裏の山田メモは、
“11-1で勝つ”。どちらを信用すべきだろうか(笑)→ 参照:〈東遊園地〉

珍しい写真がある。
この三商大戦では大阪の「スポーツマンホテル」に宿をとり、
夜は麻雀を楽しんでいたようだ。すでに日中戦争が始まっていたとはいえ、
日本国内には、まだ余裕があったということか。

ところで山田先輩は入部以来、真摯にサッカーと取り組んできたが
ずっとサブに甘んじ、リーグ戦に出たことがなかった。
その思いを部誌に綴っている。(原文ママ)

「一日蹴球を想ひ感有り」・・『蹴球』七号(昭和15年刊)
“文樂と蹴球部の行き方には関係がある。二人なり三人で
夫々、顏を手を足を、受け持って一つの人形として演ずるのである。
三人が實際に一人の人として動かなければ、人形は生きて來ぬ。
三人の間の氣合の合致が何よりも重大な契機になる。
左手の役をするべきウイングが己の職責を果さず、
足を勤めるサブが、試合に出場せざるの故に必死の闘を為さないならば
吾等のチームは一個の人形として完璧の演技を示さぬのである。
たゞ至らざるサブの身を嘆くのみ。”

「ゆらめき」・・『蹴球』八号(昭和16年刊)
“先人の蹈み分けた道を尋ねてたゞ一途に經て來た五年は
詩ではなかった。繪ではなかった。
撤しきれぬ悔恨と徹しきらうとする努力の墨繪卷であつた。
岐路に出會し迷路に蹈み込み乍らやうやつと此處まで辿り着いた。
不徹底な者を見ると我知らず「文句を言ふな實行しろ」と怒鳴りたい。
一途に生きんとすることが眞實であるならば、
私は蹴球することに於て眞實をみたい。”

昭和16年の春、山田先輩は父を亡くす。
リーグ戦でプレイする姿を父に見せることはできなかった。
受け止めきれない哀しみを、この寄稿の中で綴っている。

“私は本春愛する父を失った。暗い。
すべて暗い破烈した日の惱みと惡夢は連續して私を苦しめた。
私は父の最後の息を見届けた限りに於て死の傍観者であった。
死は最後の瞬間の平和であった。何の感覺も持たない之の世から
彼の世への靈魂の移轉は徹底しつつある貴い姿であった。
併し死そのものは私のものではなかった。私は冷たい傍観者であつた。
自ら體驗しなければ理解されない死は私の態度を冷笑するのみであつた。”

【昭和17年 1942】
前年12月に太平洋戦争に突入し、次第に戦時色が強まる中、
大学の卒業が9月に繰り上げとなり、毎年秋に行われていたリーグ戦が
春に実施されることになった。そのリーグ戦の「選手章」も残されている。
これを持っていれば入場料は無料。ちなみに「2602」とは、
初代神武天皇が即位した年を元年とする明治政府が定めた暦で、
昭和17年は「皇紀2602年」に当たる。

そして、まさにこの年に最上級生となった山田先輩は、
ついに念願のリーグ戦デビューを果たす。
写真は5月23日に明治神宮外苑競技場で行われた3戦目の対慶應戦。
CKを蹴っている背番号7の選手が、山田先輩である。
しかし、この試合、0-5で大敗してしまった。


“敵 C.K.3本のC.K.中 2本后半に決められる ダラシない試合だった
慶応の溌剌に比して何といふ情けなさ 帝大戰から以后 落ち目になった商大
誰の罪でもない 皆で 苦境を乗り切らう”

“俺は此の試合を最後にリーグ戦から退いた
4月29日のリーグ第一戦対早稲田に(1-1/3-1)と勝った (不明) は
未だに忘れられぬ 大学リーグ一部にレギュラーとして初陣
始めての神宮には余り補はれず 好センダーリング 最後の一点は
俺が中盤で拾って少し持込み左へ大きく廻すを永倉ペナルテイラインから
逆隅に鮮に決めたもの 一生忘れられない”

山田先輩にとって最初で最後のリーグ戦は、
初戦の早稲田に4-2で勝利したものの、次の東大戦以降は3敗1分。
リーグ最下位で関東2部から1部に降格という残念な結果で終わった。
そして9月、山田先輩は、6年間通い続けた小平のグラウンドを去る。

卒業後は海軍に入隊。
『蹴球』九号の名簿には「呉局気付軍艦八雲」「横須賀局気付」
「板橋部隊山田隊」などとある。軍艦八雲に乗務し
日本沿岸の警備にあたっていたようだが、詳細はわからない。
そして・・『60年史』の名簿には、悲しいかな、
「↑山田久寧 昭20.12.26(戦病死)」と記されているのみ。

最後に、昭和17年6月1日に小平グラウンドで
卒業アルバム用に撮られた2枚の写真を紹介したい。



“対立教戦前 卒業アルバム用の為に八百長で写す タックルは村木
俺が之の写眞では負けてゐる 一瞬 止まってゐるように見へるのは
dribble して來てコロブ前の一時”

波乱の時代を生きた山田久寧先輩、そして同期の先輩方に、
謹んで哀悼の意を捧げるとともに、貴重な写真を修正し
提供してくださった山田あきこさんに心より感謝を申し上げたい。

写真で辿る小平の記憶 ❶

2022年1月16日  タグ: 沿革   コメントする

今年で小平キャンパスの歴史は、およそ90年になる。
昭和世代はもちろんのこと、平成10年代前半卒までのOBOGにとっては、
現在の小平国際キャンパスの風景は現役時代とは大きく違い、記憶も薄れ、
思い出すのがどんどん難しくなっていると思う。

そこで、『100年史』を編纂するにあたって集めた貴重な写真と
左サイドバーに掲載した『小平G建物配置図』を使いながら
小平キャンパスの変遷を、最初から辿ってみることにする。
では、タイムマシンの目盛りを90年前の昭和7年(1932)にセットし、
時空旅行スタート!

『東京商科大学の精神と風土』(大澤俊夫著)によれば、
小平の地に東京商科大学予科キャンパスの建設が始まったのは
昭和6年(1931)10月。まだ屋根が未完成の本館しかない下の写真は、
昭和8年度の「建物配置図」(それ以前の記録はない)と
ほぼ一致するので、昭和7年頃に撮影されたと推測できる。

そして昭和8年(1933)9月に新学期が始まったというが、この時も未完成。
昭和11年の撮影として上述書に掲載された下の航空写真は、
昭和12年度の「建物配置図」と一致するので、おそらく正しい。


戦前に造られた建物の多くは戦後も長く残り、授業や課外活動に使用された。
「建物配置図」に初めて記載された年度に従って列挙していく。
(竣工した年とは限らない)また写真は戦前のものが少なく、
多くは戦後に撮影されたものであるが、建物の外観は戦前のままである。
(卒業アルバムの写真の撮影年は不詳)

昭 8(1933)本館
昭 9(1934)プール / 弓道場 / 柔剣道場
昭10(1935)寄宿舎 / 食堂及学生控所 / 雨天体操場(体育館)
昭11(1936)書庫及図書閲覧室 / 特別教室 / 講堂
昭12(1937)如意団(坐禅部)道場
昭14(1939)浴室及便所












昭和20年5月25日、小平キャンパスは米軍の空襲を受ける。
昭和22年撮影の国土地理院の航空写真を見ると、
寄宿舎は焼失したが、その他の建物は無事だったようだ。
またグラウンドは戦後の食糧難を補うために農園として利用され、
所々に畑の畝のようなものが見える。

昭24-25(1949-50)寄宿舎の再建が始まる
昭27(1952)寄宿舎の食堂ができる
昭29(1954)寄宿舎4棟(旧一橋寮)が竣工
・・・噴水蛇口が4段から3段に 空襲で最上部を欠損?
昭31(1956)弓道場が浴室及便所の北側に移動






昭28(1953)〜 昭57(1982)
小平グラウンドでサッカー部の練習が始まる。そしてこの年、
寮として利用されていた学生控所が、運動部や文化部の部室となる。
以来、1982年(昭57)に取り壊されるまで使われ続けた。
建設された年(昭10)から数えると、この木造の建物は50年近くの風雪に
耐えたわけである。すでに私の代でも(昭52卒)ボロボロだった。
田舎から送られてきたミカンなどの食料や衣類を詰めたダンボールを
個人専用の整理ケースとして使っていたのを懐かしく思い出す。







最後に戦前と昭和30年代の小平キャンパスの航空写真を並べてみる。
寄宿舎が建て替わった以外は、ほとんど変わっていないことがわかる。

以下、次号に続く。