酉松会(ゆうしょうかい)とは、
一橋大学サッカー部の活動を支援するOBの団体で
OB・現役有志の寄稿による「酉松会新聞」の発行、
OB戦やフットサルの開催など様々な活動を行い、
当ウエブサイトで公開しています。

沿革

秘話!PASSKEL・泥蹴会・ダックス定期戦

2025年12月29日  タグ: 沿革   コメントする

福本 浩(昭52卒 酉松会新聞編集長)記

毎年11月23日に千葉市の東大検見川グラウンドで開催される
PASSKEL(一橋OB)・泥蹴会(東大OB)・ダックス(東大職員)のリーグ戦。
優勝杯を賭けて戦うこの定期戦は、一体いつから始まったのか?
以前から試合後の懇親会で何度か話題になるが、誰も覚えていない。
30年前くらいじゃない?という漠然とした記憶でお茶を濁していた。
そこで今回、泥蹴会が50周年を迎えるにあたり、初期の歴史を
辿ってみることにした。

【検証①:謎の試合写真】・・福本所蔵
最初に気になったのが、私の手元に残る紙焼きの古い写真。
撮影場所も年月日も不明。泥蹴会チームの面々(京大OBの永井さん、
東大OBの植村さんと宮武さん)の若き姿もある。もしかしたら、
これが始まりかと思ったのだが、泥蹴会の池森さんが発掘してくれた
試合の案内状で詳細が判明した。試合日は1996年11月23日(土)、
3チームによるリーグ戦ではあるがダックスではなく興銀OB、
試合会場も検見川ではなく興銀の浜田山グラウンドだった。


一橋OBが着ている白いユニホームは、同期の山根くんが勤務していた
東京ガスのユニホームを借用したもので、チームの正式なユニホームは
まだ作られていなかった。ただ、この試合が泥蹴会との記念すべき
初試合だったことは池森さんとも確認できている。

【検証②:ユニホーム代金請求書】・・山根所蔵
正式なチームユニホームを発注したのは、平成10年(1998)2月23日。
注文したのは昭51卒〜54卒のOB 21名。PASSKEL(パス蹴る)という
チーム名は私が 1〜2年次に書かされていた部誌のタイトルに由来する。
それはさておき、この正ユニを着て表題の定期戦に初めて参加したのは
1998年以降で間違いない。歴代の写真を見ると2012年までは多くの
OBが着ていたが、現在では私だけになり、背中に縫い付けられた
白地の名前と背番号7は、すっかりはげ落ちてしまった。
27年という長い年月を感じさせる貴重な遺品(笑)ではある。


【検証③:古い5年日記帳】・・(福本所蔵)
71歳の私が40代後半に仕事で使っていた2冊の5年日記帳がある。
縦軸が同じ月日になっていて5年分のスケジュールが書き込めるものだが、
驚くような事実が記載されていた。1999年の11月23日に泥蹴会と
ダックスとの3チームリーグ戦の記載があり、試合会場は検見川ではなく
興銀の浜田山グラウンドだったのだ。大発見である。

★1999年11月23日(火)くもり
12時より浜田山にて東大OBと一橋OBの定期戦、といっても
13時近くから合流したが、思ったよりボールは蹴れたし、走れた
東大職員との3チームでのリーグ戦の結果、最下位

これが現在に続く定期戦の始まりである可能性は高いが、証拠となる
写真はないし書いた本人の記憶もない。優勝杯があったかどうかも不明。
どなたか証言できる方がいれば嬉しいが・・今はまだ見つからない。

また、1999年以外(1998、2000〜2002)の11月23日は仕事が忙しく、
OB戦の記載はない。ただ一橋OBの同期、古荘くんは1998年の11月23日に
東大の御殿下グラウンドで東大OBと試合をした覚えがあるらしい。
残念ながら東大職員も一緒だったかどうかは記憶にないそうだ。

でも次の5年日記帳(2003〜2007年)には、さらに大きな発見があった。
東大検見川グラウンドでの定期戦の最も古い記録である。試合形式も今と
変わらない!優勝杯もあった朧げな記憶がある。始まりは 2003年か?

★2003年11月23日(日)くもり 肌寒い
12時に新検見川に集合 東大OB、一橋OB、東大職員チームで
試合(20分×6)テレコムからも5人参加 グランドが悪くて
ボールが足につかない 疲れる

注)テレコムとは私がフリーになる前に勤めていたTV番組制作会社
テレコムスタッフのこと。この会社の若者5名を助っ人に呼んだ。
おかげで優勝したが、後で東大OBたちから苦情が出た記憶がある。

★2004年11月23日(火)
東大検見川Gで恒例のOB戦 今年は参加人数が少なめで疲れる
東大優勝、一橋は2位、東大職員チームは3位

この日記の記載を補足証明してくれる資料がある。
池森さんが提供してくれた「東大サッカー部史(50年度版)」だ。
これは東大ア式蹴球部の創部90周年記念『闘魂90年の軌跡(2008)』を
発刊する際に集められた「昭和50年度卒業者関連の投稿」で、
特にダックスの鵜沢聖治さんの寄稿「泥蹴会と東大ダックス」が興味深い。
記述内容前半の When/Where が、はっきりしないのが残念だが・・

“泥蹴会の方々が卒業して何年かして、池森さんから「11月23日に
泥蹴会メンバーが集まるので親善試合をやりませんか」と声をかけて
いただいたのが、泥蹴会と東大ダックスの定期戦の始まりでした。
途中から一橋OBも加わり三つ巴で定期戦をやることになりました。
ダックスは万年最下位に甘んじていたのですが、2006年に待望の
優勝杯を手にすることができました。そのときのダックスの仲間の
喜びようは大変なものでした。しかし翌年には、再び泥蹴会に
優勝杯を持っていかれてしまいました”

やはり優勝杯はあった! もうひとつの証拠資料は、
毎年の優勝チーム名を記してカップに結ばれたリボンである。
ダックスの小出さんがチェックし、リストを作ってくれた。


抜けた年が多少あるものの、私の記憶と日記帳の記載通り、
2003年はPASSKEL、2004年と2005年は泥蹴会が連覇、そして翌年
ダックスが待望の初優勝を果たすも、2007年は再び泥蹴会が優勝・・
この流れは “再び泥蹴会に優勝杯を持っていかれてしまった” という
鵜沢さんの記述にピッタリ符号する。

では、この定期戦の始まりはいつなのか?
上記のリストの中で一番古いのは 2002年の優勝リボンである。
ということは、2002年(平成14)11月23日が始まりなのか?

【検証④:酉松会新聞創刊号】
最後に決定的な証拠資料を紹介しよう。
酉松会新聞の創刊号(2008)に掲載された山根くんの寄稿である。
私が編集長をやるようになったのは Web新聞になった2014年からで
紙で配られていた時代の新聞だから、彼も私もすっかり忘れていた。
読み直してみると、以下のような重要なことが書かれていたのだ。

“東大の76年(昭和51年)卒業メンバーは毎年全国から集まってきて、
東大職員と定期戦をやっていた。東大の幹事役池森さんから声がかかり、
3チーム対応戦を始めたのが96年。7年前からは「FC東京杯」を争う
カップ戦に発展。最初の3年間は一橋が圧勝していたが、ここ数年は
東大と東大職員に競り負けて2年連続最下位”

96年の「3チーム対応戦」はダックスではなく興銀OBだったが、
大事なのは、その次の文章である。「7年前からカップ戦に発展」と
「最初の3年間は一橋が圧勝」という部分だ。先述のリストによれば
東大の優勝は2004年で、その前に一橋は「3年間圧勝」しているから、
「カップ戦」の始まりは 2001年(平成13)になる。確かな事実と
認定できる写真や証言もないが、これをもって本稿の結論としたい。

まだまだ 1997-98年、2000年のOB戦など不明な点は多い。
2001年「カップ戦」の試合会場が検見川グラウンドだったかどうかも
定かではない。来年の11月23日、泥蹴会・ダックスの皆さんと共に
しばしのタイムトラベルを楽しめればいいなと思っている。






蛇足になってしまうが、下の東大検見川グラウンドの MAPを見ると
初期の定期戦の試合会場は、現在恒例となっている「第1サッカー場」
ではなくセミナーハウスの奥にあった「第3サッカー場」だったような
気がする。これも検証したい事案ではある。

大先輩たちの遺稿

2025年2月2日  タグ: 沿革   コメントする

昨年5月、私の手元に貴重な資料が届いた。

*昭和7年に創刊された部誌『蹴球』9巻
(ただし創刊号は川村 通先輩の記事「蹴球團時代」のコピーのみ)
*『蹴球』復刊(昭和26年8月刊)
*『蹴球部部報 㐧二号』(昭和25年8月刊)
*『予科練習日誌』(昭和17-18年)


昭和18年の予科練習日誌には当時の予科3年部員、
永倉眞平が使っていた定期券(高圓寺↔︎商大豫科前)が挟まれていた。
それを見るとJR中央線も西武多摩湖線も当時は「武蔵野鐡道」と呼ばれ、
1ヶ月の料金は「6円53銭」だった。日本銀行調査統計局の
企業物価指数によれば、令和4年の物価は昭和18年の420倍らしい。
そうすると「6円53銭」は 2,742.6円 ということになる。
ちなみに令和7年2月現在の定期券(高円寺↔︎一橋学園駅)の値段は、
学割で1ヶ月 8,550円 である。昔の方がずっと安かった!?

送り主は、令和5年8月に逝去された池田 致先輩(昭39卒)の奥さま。
元々は平成28年12月に逝去された同期の石綿浩之先輩の奥さまから
譲り受けたものだという。石綿先輩は一橋サッカー部の創設メンバーの1人、
松本正雄先輩の娘婿であったから、これらの資料は義父である松本先輩が
保管されていたものかもしれない。

また『60年史』には『蹴球部部報 㐧二号』は針谷 操先輩(昭28卒)の
秘蔵品との記述があるし、『予科練習日誌』は、これを記し定期券を
使っていたご本人、永倉眞平先輩(昭23卒)が戦後も所蔵され、
お二人が逝去された後、ご遺族が石綿先輩に手渡されたのかも知れない。
今となっては知る術もないが、いずれにせよ多くの大先輩たちが
後輩のために大切に守り、巡り巡って私の元に届いたというわけである。
改めて感謝申し上げる。

上述の資料はデジタル化して当サイトの左サイドバーに掲載した。
いずれも貴重なものだが、特に「予科練習日誌」が興味深い。
当時の練習メニューや試合時のフォーメーションが記されているし、
戦時下の部員たちの苦悩や焦燥感、サッカー部の崩壊危機などが
赤裸々に書かれている。しかも自筆で! 多少読みづらいのが難点だが、
彼らの心情がよりダイレクトに伝わってくる気がする。
日誌を書いた予科部員たちの写真を見ながら文章を読むと、
また一味違ってくると思う。お時間のある時にゆっくりご覧あれ。


OBOG諸氏の中で現役時代の資料や写真をお持ちの方は
捨てる前に名簿にある私の住所に送ってください。
よろしくお願いいたします。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)

「小平G建物配置図」の改訂とお詫び

2023年11月13日  タグ: 沿革   コメントする

皆さま

左サイドバーに掲載していた「小平G建物配置図の変遷」に
石神井時代の建物配置図や新たな写真を加えて改訂しました。
「小平campus1923-1974」と「小平campus1975-2023」です。

併せて「国立campus1920-1974」と「国立campus1975-2023」も
編纂し掲載しました。お時間のある時にご覧ください。
現役時代の記憶や思い出を呼び起こす一助になれば幸いです。

なお、今回の編纂作業をする過程で、「100年史 Vol.1 沿革」に
掲載した写真に間違いがあることが判明しました。
下記の大正12年(1923)の関東大震災で廃墟と化した
神田一ツ橋キャンパスの写真です。
奥に写っている高い建物は、如水会館ではなく図書館でした。
すでにWeb版は訂正しましたが、書籍版は直せません。
この場を借りてお詫び致します。

(誤)                 (正)

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)

南の島に散った山田先輩を偲ぶ

2023年6月15日  タグ: 沿革   コメントする

〜 福本 浩(昭52卒 酉松会新聞編集長)記 〜

2月の記事「甦る!商大サッカー部の古写真」の続報。
ある資料から山田久寧(ひさやす)先輩の商大卒業後の軍歴が判明した。
「一橋いしぶみの会」の竹内雄介氏(昭49卒)が紹介してくださった
『五分前の青春 第九期海軍短期現役主計科士官の記録』である。

大日本帝国海軍で予算編成や武器・食糧の補給などを担う主計科要員を
育成する「海軍経理学校(明治40年創設)」が東京・築地にあった。
第二次大戦期、多くの大卒者がこの軍学校に入校し、わずか4ヶ月ほどの
即成教育の後、「短期現役主計士官」として戦地に送られた。
上述書は海軍経理学校の九期生たちが戦後に綴った文集である。
その中に山田先輩の写真(3列目の右端)、名簿にも名前があった!

名簿から推察するに、山田先輩は昭和17年(1942)9月に商大卒業後、
三井化学(内定していた?)には就職せず、即海軍経理学校に入校。
卒業後は21設営隊としてソロモン諸島最大の島、
ブーゲンビル島(現在はパプア・ニューギニア領)に配属され、
終戦の年の12月26日、帰国することなく現地で亡くなった。

驚いたことに、山田先輩とサッカー部の同期だった居川達一先輩と
主将の村木杉太郎先輩も海軍経理学校の九期生だった。
卒業後、居川先輩は台湾に赴任。村木先輩は駆逐艦「朝凪」の
主計長として輸送船団の護衛にあたっていたが、昭和18年に
奇遇にも山田先輩と出逢ったと『五分前の青春』に記している。



“昭和18年の末まで、横須賀・トラック・ラバウル航路はなかなか盛んで、
従って第二海上護衛隊の中心的存在であった朝凪は多忙を極めたのであった。
そのなかにはラバウル経由でブーゲンビルに向かう設営隊船団の護衛を
してみると、東商大同期の親友山田久寧がその設営隊の主計長であることを
知ったようなケースもある。連絡をとってパラオ仮泊中上陸し、
一夜の歓をつくしたことは思い出に深く残っている”

ブーゲンビル島は日本から5200キロも離れた南太平洋にあり、
四国の半分くらいの大きさの島である。この島に昭和18年に赴任したと
思われる山田先輩は、終戦までの2年近く、どういう状況にあったのか?

すでに昭和17年8月からソロモン諸島で連合軍の本格的な反抗が始まり、
日本の戦況は悪化の一途を辿っていた。昭和18年4月には
連合艦隊司令長官の山本五十六がブーゲンビル島の上空で戦死。
昭和19年に入ると玉砕相次ぐ状況となり、ソロモン諸島は完全に
後方に取り残され、補給や救援の道を絶たれてしまった。
昭和18年6月からブーゲンビル島で任務にあたっていた九期生の
高松敬治氏は、当時の凄惨な状況を『5分前の青春』に綴っている。

“昭和十九年のはじめから食糧の欠乏がひどくなってきた。
甘藷(さつまいも)畑をつくるにも、うっ蒼たるジャンブルを
ツルハシとスコップで開墾する原始的方法以外になかった。
甘藷は毎食サイの目に刻んで湯呑み食器に盛りきり一ぱい。
副食は甘藷の葉の塩汁ばかり。漁撈隊を編成して魚をとることも試みたが、
月に二、三回干し魚が食べられればいい方だった。

食べられそうな雑草はなんでも食べた。ネズミもセミもムカデも食べた。
開墾しているときに、小さなトカゲを見つけると、争ってとらえて、
引き裂いて口にほうり込むというありさまだった。
マラリアがひどくなれば脳をおかされる。
赤痢にかかれば下痢がとまらず栄養失調になることを免れない。
すっかりやせ衰えて杖をたよりに歩く姿は、さながら幽鬼のごとくであった”

山田先輩も同様の状況であったことは想像に難くない。
戦闘体験など一切なかった大学を卒業したばかりの若者が、
主計士官として何十人もの部下を率いながら、
このような極限状態に追い込まれたのである。
胸が痛いなどと軽々しく書くのもはばかれる。言葉がない。

そして、終戦。
赤道直下のナウル島で戦っていた九期生、宮部眞一氏の寄稿に
山田先輩の最期が記されている。

“敗戦降伏によって、われわれは豪州軍に捕らえられ、
ソロモンの戦場であったブーゲンビル島に運ばれて、タロキナの奥地の
キャンプから、さらにブインの沖にあるファウロの島々に分散収容された。
そこは島民も住まないマラリアの巣窟で、痩せ衰えた敗戦の将兵
(約18000余名-ソロモン地域および赤道以南の太平洋諸島)は薬を失い、
強制労働と1500カロリーの配給食糧に苦しみながら、
全員重症マラリアに罹り、その後三〜四ヶ月間に約半数以上が死亡した。
ここで同期の山田久寧主計大尉(24班)は病死された”

もう一度、久しぶりに『60年史』のページをめくってみた。
迂闊にも山田先輩、そして同じく戦地で亡くなった水島行先輩に、
昭和17年9月卒の同期が追悼文を寄せていることに今更ながら気づいた。
また昭和17-18年のサッカー部と戦争の関わりをまとめた寄稿も見つけた。
それらを抜粋し、以下に掲載する。

「戦争とサッカー部」・・ 安田興三郎(昭19.9月卒)記
昭和14年春、私がサッカー部に入った頃は、まだ日本も平和だった。
なにしろ私が「モロッコ」を観てカツキチになったのが1年後の春で、
当時は往年の欧米の名作はいくらでも名画座で観られたのである。
それもつかの間、16年の夏には早くも米画の上映制限が始まって、
無味乾燥な国策映画が巾をきかすようになった。
16年12月6日に浦高戦に備えて剣道場に合宿したが、
2日後の4時限目、講堂に集められて対米宣戦布告を知らされた。
大本営発表のラジオ放送に無邪気な拍手を送ったりしたものだ。
以下当時の日記からサッカー部に与えた戦争の影響を拾い書きしてみる。

【昭和17年】
4月7日 入営する早野広太郎先輩(昭16.4月卒)を東京駅にて見送る。
4月15日 水島行 甲種合格。本3、坊主頭ふえてかわいらしくなる。
4月17日 敵機、帝都に初空襲。
4月28日 宮沢力 甲種、山田久寧 第1乙種。
10月29日 折下章(昭16.4月卒)・松岡義彦(昭16.12月卒)両先輩、
軍服姿でグランドに現れる。(31日 折下先輩、満州へ)

【昭和18年】
1月27日 村木杉太郎・居川達一・山田久寧3海軍主計中尉の送別会
1月31日 出征先輩の武運長久祈願のため鶴岡八幡宮参拝
7月14日 故米山大三先輩宅弔問(昭15卒)
・・2月、ガダルカナルにてマラリアで戦病死の由
8月10日 一橋勤労報告隊(本科生のみ)北海道へ勤労奉仕に出発
・・1ヶ月にわたり千歳飛行場整備の土方作業で病人続出
9月26日 学徒体育大会はすべて中止となる。
10月2日 12月1日入営と発表されあわてる。
10月20日 兼松講堂にて出陣学徒壮行会。
・・国立音楽学校生徒の合唱、印象的
12月8日 開戦2周年記念日、この日の未明、妹結核にて死す。
我、喪を秘して夕刻、町内会の日の丸に送られ、一路横須賀へ。

*名前表記:筆者と山田先輩の同期、および年表に記載された先輩方

「水島行君を憶ふ」・・ 村木杉太郎(昭17.9月卒)記
昭和19年の初夏の候だったと思う。私が駆逐艦乗組を終えて
軍需省の軍需監理官として大阪勤務となって間もなくの或る日曜日、
夙川の下宿へなんの前ぶれもなく、全く思いがけず水島からの電話が
かかってきた。上本町6丁目の近鉄の終点にいるとのことであった。
早速道順を教え、時間を見計らって阪急線夙川の駅に出迎えた。
彼は少尉の襟章をつけ鉄兜背のうを背負って完全な武装で
南方に向かう途中立ち寄ってくれたのであった。

その晩は下宿の小母さんに頼んで酒の用意をしてもらい、
深更まで飲みかつ語らったのであった。
話は、最近の軍隊生活から始まったが、
落ち着くところは勿論サッカー部時代の思い出であった。
翌朝連れだって下宿を出て、夙川の駅頭で、彼は神戸に向かい、
私は大阪へと左右に別れた。それが二人の最後の別れとなった。
彼は間もなく門司から乗船、船団を組んで南下し、
比島沖で敵潜水艦の攻撃を受け、乗船は沈没し、
彼は若い一生を終わり再び遭うことのない世界へ行ってしまった。

水島行君とは予科の5組で入学当初から一緒であり、
教室では同じMのために前後して座り、教室を出れば部室、グラウンドで
また一緒という仲であった。彼は浜松一中時代からサッカーの選手であり、
我々同年の仲間の唯一の経験者として最初から綺麗なインステップキックが
できる新入生であった。

彼は人のことは気にせずひとりでさっさと実行するようなところもあったが、
一面何となくさびしがり屋のところもあった。
水島家の末弟としての育ちから滲みでるものであったろうが。
予科入校当初から煙草を吸い、帽子を一寸斜めにかぶり、
一見遊び人風の姿勢もあったが、根は純情であり、
サッカーでは全身をぶつけていくといった激しい情熱を燃やしていた。
昭和15年、本科1年の時の部誌には次のように記している。

“日ざしはもはや夏の合宿を思い起こさせる。汗が目に入り、土埃は渦をなして
きりきりと舞い上がる。たちまちにして泥人形ができた。ボールを追う格好、
蹴る姿、意気と熱、偉大なるかな蹴球の姿よ。リアリストもロマンチストも
またデレッタントもペシミストも総てが詩人となって、真を、美を追求す”

学生時代の彼の心の中には、怠惰な傍観者的心情と、サッカーに打ち込む情熱と
それらの生活を冷たく見つめる批判者としての心情の三者が常に同居し
葛藤を続けていたのではないかと思われる節がある。これらの心情の総てを
サッカーに燃やし尽くして若くして逝った水島のことを思うと
今も胸がしめつけられるような気持がする。ご冥福を心から祈る。

「山田久寧君のこと」・・ 藤塚亮策(昭17.9月卒)記
君は卒業と同時に海軍経理学校に入校、士官となってからは南方に転戦、
終戦をブーゲンビル島で迎えられた。祖国帰還に当って同島の南端から
北端の集結地まで人跡稀な熱帯のジャングルを部下を引率して山越えの途中、
病に犯されて壮烈な戦病死されたことを、小生復員後に伝え聞いた。
私共、当時としてはもとより死を覚悟して戦場にのぞんだわけだが、
同君の死が終戦後のことだけに返す返すも残念で堪らない。

君は私と同じように余り器用な方ではなかったが、それを補って
5年半の蹴球部生活を全うするために人一倍練習に励むと共に、
サブとして部の礎たらんと自らに鞭打つ責任感の旺盛な男だった。
敗戦に打ちひしがれた部下全員を一日も早く祖国に連れ帰るために
己れを捨てて、恐らくは無理に無理を重ねた結果が
彼を還らぬ人にしたものと思われる。

彼は首が長くネックとアダ名されていた。首を振り振り疾走するさま、
ライトウイングとしてカマキリが獲物を襲うに似た形でゴールに向かって
ヘディングする様子が、昨日のことのように想い浮ばれる。
彼のプレイぶりには猪突なところがあったが、心情は大変デリケートで
慎重だったと思う。彼は予科1年の夏の合宿から入部したが、それまでの間、
3つの部を遍歴するが納得がいかず、生れて初めて経験したクラスチャンでの
サッカーの試合出場を通じて蹴球部の存在を知って入部し、辛い練習と
先輩方にもまれているうちに次第に、己れの青春を注ぎ込む場所はここだと
体得するようになったと述懐していた。

彼はまた人一倍純情な男で、路傍の小さな花にも愛情を注ぎ
「行く末は誰が肌ふれん紅の花」とつぶやいていたのが耳に残っている。
また大変な勉強かでもあった。荻窪に下宿していたが、練習のドロンコ姿とは
打って変りキチンとした着物姿で正座して読書に励んでいた。
最初のうちは受験勉強から解放されて選択の自由が得られたこともあってか、
文学・社会科学・哲学の各分野に亘って乱読・多読していたようだが、次第に
的を絞って哲学系を主体としたものの精読と沈思へと移り変って行った過程が
彼の書棚に並ぶ蔵書からもうかがい知ることができ感心したものだった。

ともあれ、商大蹴球部の大きな支えである多くのサブの中でも
彼は傑出したサブの一人であったと思う。

まもなく終戦から数えて78回目の夏を迎える。
戦争で命を落とされた先輩、
そして・・サッカーに青春の情熱を捧げ
ア式蹴球部100年の歴史を支えてこられた先輩方に、
改めて、心からの哀悼と敬意を捧げたい。

甦る! 商大サッカー部の古写真 ①

2023年2月12日  タグ: 沿革   コメントする

〜 福本 浩(昭52卒 酉松会新聞編集長)記 〜

令和5年を迎えて間もない1月13日の夜、
私の元に、こんなメールが届いた。

“初めまして、酉松会のホームページを偶然見つけ、
ご連絡差し上げました。私の伯父に当たる人物が戦前の商大出身で、
サッカー部に所属していたようです。現在家族の古いアルバムの
写真の修復をしており、伯父のアルバムの中にサッカー部の写真を
見つけました(昭和13−17年?)。そのうちの1枚は酉松会の
「発掘!戦前のサッカー部の写真」のページにあった写真と同じでした。”
・・参照:〈発掘!戦前サッカー部の写真〉

“甲子園で行われたらしい大学選手権のハーフタイムの写真や、
紀元2602年(1942年 / 昭和17年)の選手章もありました。
現在まさに修復中なので合計何点になるかわからないのですが、
酉松会の資料編纂のお役に立てるようでしたらご一報ください。”

メールをくれたのは、山田 あきこさん。
彼女の伯父の名前は、山田 久寧(ひさやす)。
部誌『蹴球』の名簿を見ると、確かにその名があった!
しかも私の出身高校の大先輩でもあったのだ。何という不思議な縁!!
以下、山田先輩と記す。


*入部:昭和12年(1937)
*出身高校:旧制宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高校)
*現住所:一橋寮
*帰省先:福岡県小倉市上富野

あきこさんによれば、ご先祖は愛媛の武家。
祖父(山田先輩の父)の代から東京に住んでいたが、
陸軍将校だった祖父は “ありえないレベルの転勤族” だったので、
子供たちは小学校だけで3回か4回変わっているという。そして、
伯父が中学入学のタイミングで赴任したのが栃木県の宇都宮。その後、
祖父は福岡県の小倉に転任したが、すでに高学年になっていたので
転校せず、宇都宮中学から大学を受験したのではないかと推測している。

山田先輩は上記『蹴球』四号に入部の動機をこう綴っている。


(原文ママ)
“大分時期を過ぎた頃誰の推めでもないのにヒョッコリと入部した。
七月の語學試驗も過ぎた頃寮生慰安として寮對抗の試合があった。
この時僕はルールも何も知らないのにハーフとして加はった。
で眞夏の暑い頃汗を流してグラウンドを走り廻る快味を始めて知つた。
何とその壯なる事よ。何とその男性的なる事よ。一度その力を知った僕は
日一日とサッカー戀しの思ひを、募らせるだけだった。折も折
父に「體を丈夫にしろ。ヒョロヒョロの體では實社會の落伍者だぞ」と
云はれて益々サッカーに對する愛戀の情に拍車を加へた。
かくて僕は入部した。本科へ進んでからの激烈な勉學に且つ
實社會へ行つてから最後の勝者たるに堪へる體格を作らんが爲に ”

実は、あきこさんはグラフィックデザイナー。
忙しいお仕事の合間を縫いながら、古ぼけた写真を一枚一枚
丁寧に修復して送ってくださった。しかも写真の裏には山田先輩が
記したキャプションがあり、いつ、どんな時に撮られたかがわかる。
これが本当にありがたい。以下、年代を追って紹介していこう。

【昭和13年 1938】
まずは酉松会のページにあったものと同じ写真から。


*10月末 本科三年 後藤 岩崎 二兄送別

修復された写真は驚くほど鮮明で、
当時のサッカー部員たちの表情、ボロボロの練習着にシューズ、
かなり歪んだ皮製のボールまでもが、生き生きとよみがえっている。
『60年史』によると、戦時中に使っていたボールは牛皮ではなく
豚の皮だったらしいが、写っているのは豚皮のボールか!?

こちらは11月6日、関東2部リーグvs立教大学戦後の写真。
裏には最強の敵である立教を2-0で破り、“一同踊り上って喜んだ” とある。
軍服の男性(応援に来たOBか)が2人いるのが当時の世相。
そんな中でリーグ戦が行われ、しかも笑顔があることに少しホッとする。
試合会場は表参道駅の近くにあった「青山師範学校(現東京学芸大学)」の
グラウンドだが、後ろの建物の窓から顔を出す学生や洗濯物が見える。
学生寮か? 鮮明な写真のおかげで、いろいろ推測できるのが楽しい。

次は、11月に小平の部室前で撮影された写真。
関東リーグ2部で優勝し、1部に昇格した年だった。
何の大会かは不明だが、たくさんのカップを誇らしげに持っている。
拡大してよく見ると、窓の桟に「サッカー」の白い文字がある!
部室名を表示したものだと思うが、それが「蹴球」ではないことが興味深い。
ごく自然に「サッカー部」と呼んでいたのだろう。85年も前の部員たちなのに
急に親しみが湧いてくる。お〜い!と声をかけたくなる。

【昭和14年 1939】
こちらも11月に小平の部室前で撮られた集合写真。
手ぬぐいを姉さんかぶりした部員が多くホウキもあるので、
大掃除をしたのかもしれない。また部室の前に草ボウボウの空き地がある。
実は、これがヒントになり長年の疑問が解けた。当時の部室は
小平予科分校のどこにあったのか、という疑問である。


それは、下の航空写真の右端中央にある建物だった。
南側に広めの空き地があるし、昭和12年度の「予科建物配置図」に
〈仮食堂及部室〉と記された建物なので、おそらく間違いないと思う。
この〈部室〉は戦争末期に小平分校を接収した軍によって撤去されたため、
戦後は南隣りにあった〈生徒控室〉が長く部室として使われた。


こちらは中野の「辰美野」という店で行われた卒業生の送別会の写真。
我々の時代「追い出しコンパ」と呼んでいた飲み会だ。
商大時代の写真によく登場する店で、サッカー部は常連だったようだ。
徳利とお猪口を手に皆ご機嫌である。

ただ、この写真に少し疑問が・・
山田メモには “14.11.21 送別会 後藤 岩崎” とあるが、『60年史』にも
同じ写真があり、キャプションは「昭和13年 納会」となっている。
前列中央に座るスーツ姿の二人は、上記の小平グラウンドの写真
“昭和13年10月末 本科三年 後藤 岩崎 二兄送別” の二人と同じで、
昭和14年の春に卒業しているはず・・どちらが正しいのか?
これは、山田先輩に聞かないとわからない(笑)

【昭和15年 1940】
1月27日、予科分校の本館の玄関前で撮られた集合写真。
山田先輩を含む予科3年部員7名の送別会で、前列が3年生、
その後ろに1〜2年生らが並んでいる。当時は予科チームのリーグ戦や
定期戦があったが、何のカップを手にしているのかは不明。
参考までに3枚目の写真は、山田先輩のアルバムにあった昭和12年撮影の
予科本館。まだ竣工して3〜4年しか経ってないのでメチャメチャ綺麗だ。
こんなお洒落な丸窓があったとは・・まったく記憶にない(笑)


余談だが、商大時代は学帽と学生服が制服だった。
戦後、一橋大学になってもしばらく続いていたようだが、
昭和30年代半ばの卒業アルバムぐらいから次第に制服姿が消えていく。
いつ、正式に制服廃止となったのだろう?

以下、次号に続く。