酉松会(ゆうしょうかい)とは、
一橋大学サッカー部の活動を支援するOBの団体で
OB・現役有志の寄稿による「酉松会新聞」の発行、
OB戦やフットサルの開催など様々な活動を行い、
当ウエブサイトで公開しています。

沿革

100年史④ 〜小平G誕生と黄金時代〜

2020年2月17日  タグ: 沿革   コメントする

ア式蹴球東京カレッジリーグの1部に昇格した昭和9年(1934)には、
他にも100年史において記憶に止めるべき事由がある。

昭和8年に予科が石神井から小平へ移転。まだグラウンドは使えず、
しばらくは国立の陸上競技場で練習していたが、昭和9年の春に
サッカー専用のグラウンド が完成した。本科のある国立からも通い
やすくなり、これまで不便と悪条件の中で練習していた部員たちは
夢かとばかりに喜んだという。

また昭和9年にはサッカー部初の部誌 『蹴球』 が創刊され、
昭和17年(1942)の第9号まで続いた。なお余談になるが、第9号は
原稿が集まっていたものの戦時中の混乱の中でで発行されなかった。
しかし、その原稿は0B有志の手で戦後も奇跡的に保管され、昭和57年
(1981)に発刊された。戦前・戦中の大先輩たちの熱い思いが詰まった
部誌『蹴球』の全9巻を当ウェブサイトの左サイドバーに掲載したので、
ぜひお読みただきたい。

さて、大正13年(1924)より11シーズン続いた東京カレッジリーグだが、
昭和10年(1935)に大学と高等専門学校のリーグに分離し、現在に続く
関東大学サッカーリーグ がスタートした。この年、部員は30名を越す
大所帯となり、部の運営・練習方法など新たな工夫が必要となる一方、
部員の自信が高まり、部の伝統が芽生え始めたという。


昭和12年(1937)のリーグ戦では全敗し2部に降格するが、翌年には
2部で全勝優勝し、すぐさま1部に返り咲く。そして昭和15年(1940)、
早稲田と同位ながら 関東リーグ1部 準優勝! 我がサッカー部史上
最高位の記録で今も破られていない。まさに黄金時代、輝ける年となった。



ところで、この黄金期の昭和13年(1938)に商大ア式蹴球部OB会は、
創立メンバーの1人である川村 通によって「酉松会」と命名される。
名前の由来については『60年史』に、川村先輩ご自身が寄稿されている。
いわく・・

「酉松なんという熟語はもちろんない。つまり新発明だ。
一字ずつの意味ならば、 というのは成熟する、稔る、又は、老ゆ
ということで、それに方角を示す字としては、西という意味をもつ。
はいうまでもなく松の木のこと。そこで 酉松 と続けて、城西の国立
(宮城のほとんど真西にあたる)なる母学の庭の老松ということから
学窓を離れて世に出てもいつまでも変わらぬ同志の心にたとえてみた」

さらに明治天皇が詠んだ歌
「すみし世にかわらぬものは昔より老いたると見し松ばかりにて」 や
昔の蹴鞠は競技場の四隅に松の木を植えたことにも因んだという。

発足から82年・・・
「酉松会」に込めた大先輩の深い思いを、もう一度かみしめたい。
以下、次号。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記

100年史③ 〜カレッジリーグ始動〜

2020年2月16日  タグ: 沿革   コメントする

驚いたことに関東大震災の翌年、大正 13 年(1924)に
ア式蹴球東京カレッジリーグ(関東大学リーグの前身)が始まる。
東京の大学と専門学校12校が、6チームずつ2部に別れて戦ったが、
何を基準に分けたかは不明。商大は2部で、1勝(vs東歯)4敗、5位に。

【1部】 早稲田・帝大・東高師・法政・慶応・農大
【2部】 一高・明治・外語・青学・商大・東歯(東京歯科医学専門学校)

その後カレッジリーグは、大正14年に3部制、昭和6年には5部制に
拡大。大学や専門学校にサッカー部が次第に増えていったことが伺える。

商大の戦績といえば、しばらくは2部で奮闘していたが、昭和5年に3部、
翌年には4部にまで降格してしまった。当時の大学は予科3年・本科3年で、
サッカー部の主力は予科が中心。本科の学生は指導役となっていた。
まだ同好会のような雰囲気で、練習も11名を欠くことが多く、練習なしで
試合に出場する選手もいたという。

しかし昭和7年から、まさにV字回復。快進撃が始まる。
猛練習に猛練習を積み重ね、3年連続でリーグ優勝を果たし、
どん底の4部から念願の 1部昇格(昭和9年)を成し遂げたのだ。

そのチーム再建の最大の功労者が、肋膜炎と患いながらも医者と家族の
反対を押し切って卒業まで練習や試合に参加し、その優れた技術と卓越した
統率力・ユーモアで部を牽引した 長瀬 凱昭(東作) である。
ある後輩は『60年史』に、こう記している。

「国立の本科から雨の日も風の日も休むことなく石神井グラウンドに
通って指導してくれた長瀬大先輩のことは、決して忘れることのできぬ
神にも近い尊い姿であった」

・・・注)神田一ツ橋にあった本科は、昭和5年に国立へ移転




長瀬大先輩は昭和9年に卒業し三菱鉱業に入社。しかし、わずか3年後の
昭和12年10月21日、病が再発。この世を去った。蹴球部時代に残した
彼の言葉が、後輩たちに語り継がれている。

「蹴球部員は皆ボールと恋愛せよ。熱愛せよ。そして女性と恋を語るな……」

以下、次号に続く。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記

100年史② 〜震災を乗り越えて〜

2020年2月4日  タグ: 沿革   コメントする

大正9年(1920)、東京高等商業学校から大学に昇格し「東京商科大学」と
称するようになった。同年には大学前の通り(現白山通り)に市電が開通し、
「一ツ橋 商科大学前」という停車場もできた。

*現千代田区一ツ橋2丁目*


大正10年(1921)に産声をあげた「商大蹴球團」は、翌大正11年、
日本最初のサッカーリーグである「専門学校蹴球リーグ戦」に参戦した。
商大(現一橋大)・帝大(現東大)・早稲田・東京高等師範学校(現筑波大)の
4チームで試合を行ったが、戦績は不明。

ちなみに日本で最初にサッカーを体操の教材として取り入れたのは筑波大で、
明治19年(1886)のこと。まだラグビーと未分化の状態であったが、明治35年
(1902)にア式蹴球部が創設され、イングランド人の教員が赴任して指導した
明治37年(1904)からサッカーが行われるようになったと伝えられている。
また「専門学校蹴球リーグ戦」に参戦した歴史を持つ一橋大・東大・早大の
3校は、今でも「ア式蹴球部」を名乗っている。

さて、こうして100年の歴史の第1歩を踏み出したサッカー部だったが、
創部からわずか2年後、思いもよらぬ天災に襲われる。
大正12年(1923)9月1日、関東大震災・・・
校舎の大半を消失し、商大キャンパスは廃墟と化した。

大正13年(1924)4月から本科は神田の仮校舎で授業を開始。


予科は石神井に造られた仮校舎に移転し、劣悪なグラウンドで練習を再開した。
当時を知る先輩は「60年史」に、こう記している。

「石神井グラウンドは元イモ畑で凸凹だらけ。
練習前にシャベルで雑草の強い根を除去するのが日課だった。
雨が降れば泥沼となり、乾くと土煙が舞う砂漠と化す。
当時、勢いがあったラグビー部と半面ずつの共用で、肩身が狭かった」


ここまでに掲載した写真は、すべて『写真集 一ツ橋大学百年』より抜粋。
下の2枚の写真は『60年史』とGoogle Earthより。

以下、次号に続く。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記

100年史 ① 〜草創期〜

2019年1月11日  タグ: 沿革   コメントする

2年後、わが一橋大学ア式蹴球部は創立100周年を迎える。
国立の一橋大学付属図書館に、創立当時のエピソードを伝える
貴重な資料が残されていることをご存知だろうか。
昭和9年(1934)に創刊され第7号まで作られたという
我が部初めての部誌「蹴球」である。
創刊号の一部を下に掲載するので、この機会にぜひ読んでいただきたい。

✳︎下記をクリックすればPDFファイルをダウンロードできます。
「蹴球」創刊号:巻頭写真と川村氏の寄稿

創刊号に寄稿された創立メンバー6名の1人、川村 通氏によれば
「蹴球団」の結成は、大正10年(1921)の春。当時、一橋大学は
予科3年・本科3年の東京商科大学と呼ばれていた時代だ。
そして6月、東京高等師範学校(後の教育大、現在の筑波大)の
グラウンドで早稲田高等学院(早大の予科)を相手に初試合を行った。
結果はスコアレスドロー。両校ともサッカーが日本人よりうまかった
中国人留学生をFWに起用。同じような戦法だったから引き分けたと
川村氏は記している。ともあれ、この初試合が行われた大正10年6月、
一橋大学ア式蹴球部は、正式に産声をあげたのである。

もう1点、おそらくサッカー部に初めて寄付をしてくださった大先輩、
田中虎之輔氏について記しておこう。彼の先祖は幕末から明治にかけ
横浜で生糸・茶の輸出や両替商を営み、財を築いた田中平八。
単に利益を追求するだけでなく水道やガス灯の敷設など私財を投じて
公益にも寄与し、「天下の糸平」として世に知られた人物である。
その血を継ぐ虎之輔氏も「桁外れに年長のえらい実業家」だったようだ。

ちなみに「蹴っとばし団員」が彼から頂戴した「大枚50円」は、
大正10年当時、大卒銀行員の初任給と同じ額だったという。
現在の貨幣価値に換算すると、およそ20万円くらいか。
ヨチヨチ歩きを始めたサッカー部にとっては、本当にありがたい
寄付だったに違いない。以下、次回に続く。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記