酉松会(ゆうしょうかい)とは、
一橋大学サッカー部の活動を支援するOBの団体で
OB・現役有志の寄稿による「酉松会新聞」の発行、
OB戦やフットサルの開催など様々な活動を行い、
当ウエブサイトで公開しています。

沿革

100年史② 〜 震災を乗り越えて

2020年2月4日  タグ: 沿革   コメントする

大正9年(1920)、東京高等商業学校から大学に昇格し「東京商科大学」と
称するようになった。同年には大学前の一ツ橋通り(現白山通り)に市電が
開通し、「一ツ橋 商科大学前」という停車場もできた。

*現千代田区一ツ橋2丁目*

大正10年(1921)に産声をあげた「商大蹴球團」は、翌 大正11年
日本最初のサッカーリーグである 専門学校蹴球リーグ戦 に参戦した。
商大・帝大(現東大)・早稲田・東京高等師範学校(現筑波大)の
4チームで試合を行ったが、戦績は不明。

ちなみに日本で最初にサッカーを体操の教材として取り入れたのは
筑波大で、明治19年(1886)のこと。まだラグビーと未分化の状態で
あったが、明治35年(1902)にア式蹴球部が創設され、イングランド人の
教員が赴任して指導した明治37年(1904)からサッカーが行われるように
なったと伝えられている。また「専門学校蹴球リーグ戦」に参戦した歴史を
持つ一橋大・東大・早大の3校は、今でも「ア式蹴球部」を名乗っている。

こうして100年の歴史の第1歩を踏み出したサッカー部だったが、
創部からわずか2年後、思いもよらぬ天災に襲われる。
大正12年(1923)9月1日、関東大震災・・・
校舎の大半を消失し、商大キャンパスは廃墟と化した。


大正13年(1924)4月から本科は神田の仮校舎で授業を開始。



予科は石神井に造られた仮校舎に移転し、劣悪なグラウンドで練習を
再開した。当時を知る二階堂謹二(昭10卒)は「60年史」に、
こう記している。

“(石神井予科の)グラウンドたるや、正に田んぼに類するものであり、
一度雨降るや全くの泥濘化し泥田で練習するかたちとなる。
また乾き切るや風に煽られモウモウの土煙を巻き起こし、砂漠と化す。
更にラグビー部と反面ずつの共用にて、当時ラグビーの方が威勢良きため、
ややもすれば押され気味にて、ランニングパスがよく我が陣に乱入する
機多く、練習をために乱さる。”


当時の商大予科校舎とグラウンドの跡地は、
現在、以下の地図のように都営アパートになっている。
なお黄色い境界線は筆者が推測したものであって、正確ではない。

以下、次号に続く。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記

100年史 ① 〜 草創期

2019年1月11日  タグ: 沿革   コメントする

2021年、わが一橋大学ア式蹴球部は創設100周年を迎える。
国立の一橋大学附属図書館に、創設当時のエピソードを伝える
貴重な資料が残されていることをご存知だろうか。
昭和9年(1934)に創刊され第9号まで作られたという
我が部初めての部誌「蹴球」である。

創刊号の一部を下に掲載するので、この機会にぜひ読んでいただきたい。
下記をクリックすればPDFファイルをダウンロードできます。
「蹴球」創刊号:巻頭写真と川村氏の寄稿

創刊号に寄稿した創設メンバー6名の1人、川村 通によれば
「蹴球団」の結成は、。当時、一橋大学は
予科3年・本科3年の 東京商科大学 と呼ばれていた時代だ。
(大正9年に東京高等商業学校から昇格)
その経緯を川村は軽妙に綴っている。

“僕等が一ツ橋の学校に入ったのは大正九年だった。其の翌春二年に
成って気も落ち着くと、何か自分の営みらしいものが欲しくなる。
此の時分だった、猫額大の校庭に体操教官から借用の古びた籠球用
ボールを、一人で蹴って遊ぶ一壮漢を見出したのは。しかも打ち見れば、
いささか年配の高商生(東京高等商業学校出身の学生)である。食堂の
壁に蹴あてし鞠は、転じて以て学生集会所の窓を襲ひ、鞠を受け鞠を追ひ、
縦横無尽の大活躍だ。ロイド眼鏡の奥に人なつこい眼が笑ふ。是が我が
兵藤先輩であった。たちまち僕も此の清貧孤独にして、しかも鞍馬山は
義經の一人剣術的蹴鞠(敢て後年の蹴球と分つ)の仲間入りをした。
朝は始業前から蹴る。昼休勿論蹴る。放課後は最も蹴る。日沒に至って
わずかに止む。日曜日にも登校して終日蹴った。従って仲間も日増しに
ふえた。”


そして6月、東京高等師範学校(後の教育大、現在の筑波大)の
グラウンドで早稲田高等学院(早大の予科)を相手に初試合を行った。
結果はスコアレスドロー。両校ともサッカーが日本人よりうまかった
中国人留学生をFWに起用。同じような戦法だったから引き分けたと
川村氏は記している。ともあれ、この初試合が行われた大正10年6月、
一橋大学ア式蹴球部は、正式に産声をあげたのである。

もう1点、おそらくサッカー部に初めて寄付をしてくださった大先輩、
田中虎之輔 について記しておこう。彼の先祖は幕末から明治にかけ
横浜で生糸・茶の輸出や両替商を営み、財を築いた田中平八。
単に利益を追求するだけでなく水道やガス灯の敷設など私財を投じて
公益にも寄与し、「天下の糸平」として世に知られた人物である。
その血を継ぐ虎之輔氏も「桁外れに年長のえらい実業家」だったようだ。

ちなみに「蹴っとばし団員」が彼から頂戴した「大枚50円」は、
大正10年当時、大卒銀行員の初任給と同じ額だったという。
現在の貨幣価値に換算すると、およそ20万円くらいか。
ヨチヨチ歩きを始めたサッカー部にとっては、本当にありがたい
寄付だったに違いない。以下、次回に続く。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記