酉松会(ゆうしょうかい)とは、
一橋大学サッカー部の活動を支援するOBの団体で
OB・現役有志の寄稿による「酉松会新聞」の発行、
OB戦やフットサルの開催など様々な活動を行い、
当ウエブサイトで公開しています。

100年史⑦ 〜 伝統の小平春夏合宿が始まる

昭和21年から30年までの戦績は、以下の通り。

昭和23年(1948)
前年のレギュラーが8名も卒業して技量が低下。部員数も極度に
減少したため毎試合11人揃えるのに苦労し、集まったメンバーを見て
ポジションを決めるという有様で、2部でも全敗して 3部に転落 した。
また主将も不在で一時は部の存続すら危ぶまれる最悪の事態となった。

昭和24年(1949)
本年より学制改革が行われ 、6:5:3:3 から 6:3:3:4 に移行。
5月に東京商科大学から 一橋大学 と改称する。

前年から9人もの部員が卒業し、高校時代の経験者2名に臨時出場を
要請しなければならないほどメンバー集めに苦労したが、予科生が
主体となり、よく耐え、よく忍び、1年で 2部に復帰 した。

“3部転落の憂き目を何とか晴らしたいという全員の熱烈なファイトが
盛り上がり、年間を通じて長雨の泥濘戦ではあったが、5戦5勝
2不戦勝の戦績を挙げ、ついに待望の2部昇格を果たすことができ、
全くの感無量の一言に尽きた。特に3部の中にはやくざ風の者もおり、
試合を投げてグランドに坐りこむ奴もいて全くサッカーを侮辱するもの
と憤慨に堪えず、この点からも3部脱出は商大サッカー部のプレステイ
ッヂの為にもよかったと思った。” ・・『60年史』の記事より

昭和25年(1950)
食料や衣服等を始めとする社会環境が安定の兆しを見せ始め、それに
つれて部員数も増加。総勢24名になり、部活動がやっと軌道に乗る。

昭和26年(1951)
練習は国立のグラウンドで1日おきに午後1時半から日没まで行われる。
日曜は他校との練習マッチやOB戦をできるだけ組み、実戦でチーム力の
アップを図る。当時は麺類とコッペパンはあったが、米飯は配給制だった
ので、各自袋に入れて合宿に参加した。秋のリーグ戦は三鷹の武蔵野
グラウンドが主で、土のグラウンドとしてはよく整備されていたが、
風が吹くと砂塵が舞い上がり、ひどかった。

昭和27年(1952)
春、国立から グラウンドを小平へ 移す。
まだ土がブカブカだったため、練習の前に砂をまき戦時中の軍の
忘れ物である重い「人力ローラー」を引いて締めるのが日課だった。
当初はホッケー部のグラウンドを使わせてもらうこともあり、
完全な状態になるまでには1年以上かかったという。

昭和28年(1952)
戦前にあった部室は軍が小平分校を接収した際に撤去されており、
部員たちは体育館の用具置き場で着替えていた。しかしこの年、
新しく建設された4棟の一橋寮がオープンし、それまで寮として利用
されていた学生食堂棟の半分が各運動部の部室や合宿所として使える
ようになった。以後、春と夏の合宿を小平で行うことがサッカー部の
長い伝統となっていく。当時は貸蒲団などなく、各自が自宅又は寮から
布団や枕を電車に乗せて持ち込み、食事は寮の賄いに依頼したという。




この頃のサッカー部について、あるOB(昭34卒)は『60年史』に
こう記している。

“わが国のサッカーは、東京オリンピックを一つの契機として
めざましい発展をとげ、極めてポピュラーなスポーツになりましたが、
当時は野球が国民的スポーツで、サッカーはマイナースポーツの1つに
過ぎず、そのため特に学生数の少ない我が校では、高校サッカーでの
経験者も少なく新人にはイロハから教えこむという状況でした。

3~4年で高度な技術を身につけることは並大抵なことではなく、
自づと限界がありますので、技術で及ばない所は体力、気力で補う
いうのが我々のモットーでした。このため日曜日も含め毎日が練習日で、
ロングと称した多摩湖、国立への往復ランニングはほんとに苦しい
トレーニングでした。”

以下、次号。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記

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