酉松会(ゆうしょうかい)とは、
一橋大学サッカー部の活動を支援するOBの団体で
OB・現役有志の寄稿による「酉松会新聞」の発行、
OB戦やフットサルの開催など様々な活動を行い、
当ウエブサイトで公開しています。

100年史⑤ 〜 伝統は戦争の時代に培われた

昭和15年(1940)、商大サッカー部は関東大学リーグ1部で
準優勝を果たし、サッカー部史上最高位の大記録を打ち立てた。
しかしその黄金期は、戦争の時代でもあった。

昭和12年に日中戦争が始まり、昭和16年には太平洋戦争に突入。
そし終戦に至るまでの間、多くの先輩たちが戦場で命を落とした。
昭和14年刊の部誌 『蹴球』 第6号は、中支戦線で戦病死した
荒井文雄(昭12卒)の追悼号になっている。また下右の昭和13年の
写真には軍服姿のOB(多分)2人が写っている。


この激動の時代を、『60年史』を参考にしながら、
さらに詳しく辿ってみよう。

昭和15年(1940)
学生の徴兵は26歳まで猶予されていたが、徐々に戦時色が部生活に
波及してきた。ユニホームはペラペラのスフ(staple fiber の略
化学繊維のこと)で、サッカー靴も牛皮から豚皮になる。
(のちには馬皮、ついには鮫皮に)

“ボールはさすがに牛皮だったが、練習の時のボールは皮が薄くなって
倍くらいに膨れ上がった代物。軽くて大きいため蹴ってもスピードが出ず、
風が強いとあらぬ方向に流されていく。極端に言えば風船玉の固いものと
思えば良い” ・・鷺埜 和夫(昭19卒)


昭和16年(1941)
この年の関東リーグ1部は9月28日に明治神宮外苑競技場で開幕。
最終戦は11月2日で、その1ヶ月後の12月8日、日本は太平洋戦争に
突入した。すでに学生の徴兵猶予は撤廃され、同年10月に大学・専門
学校の修業年限が3ヶ月間短縮。12月に卒業となった学生を対象に
徴兵検査が行われ、合格者は翌年2月に入隊。大学生にとっては、
卒業即軍隊生活の時代になっていく。


昭和17年(1942)
予科も修業年限が6ヶ月間短縮され、9月卒業、10月入隊の措置が
取られる。このため毎年秋に行われていた関東大学リーグ戦は、
春に実施されることになった。3月末に合宿し3試合ほど練習試合を
行い4月29日に開幕というあわただしい空気の中、商大は奮闘したが
最下位となり2部に降格してしまう。


昭和18年(1943)
4月、戦局の激化に伴い予科の修業年限が2年となる。
5月に行われた関東リーグ2部の試合に参加したのは、わずか4校。
商大は3戦全勝して見事1部復帰を果たす。


10月には卒業までの徴兵猶予が撤廃され、20歳以上の文科系学生が
在学途中で徴兵される。そして10月21日、関東大学サッカーリーグが
開催された明治神宮外苑競技場(現国立競技場)において、
7万人に及ぶ関東地方の入隊学徒の「出陣壮行会」が挙行された。


また運動部にも数々の制約が加えられ、ラグビー以外の外来スポーツが
禁止になる。サッカー部は冬から「滑空班(グライダー部)」として
活動し、再びボールを蹴る日に備えて体力の維持増強に努めたというが、
密かにボールを蹴っていたと思われる記述もある。

“我々は部生活の根を残すことを考え、サッカー部を中心として滑空班を
組織した。ところが練習用のプライマリーグライダーは第1回の練習で
壊れてしまい、修理に出したはずが遂に戻ってこなかった。私たちは保管
してあったボールを持ち出してサッカーを始めた。靴も不足していたので
全員裸足で蹴っていたが、それで結構面白かった” ・・高柳 晋(昭23卒)

昭和19年(1944)
3月に小平の予科校舎が軍に接収され、学生は国立へ。
以後、運動部の練習の本拠は国立の陸上競技場と野球場になる。
しかし「出陣学徒壮行会」以降、学生が続々と入営し、サッカー部員は
わずか7〜8名。事実上チーム編成が不可能になった。他の大学も同様の
状況で、リーグ戦も中止となる。やむなく休部を決意した部員たちは、
サッカー部創設メンバーの1人であり、後輩たちを物心両面で支えていた
大先輩、松本正雄(大正15卒)に相談したが、ひどく叱られたという。

“君らは何を言うんだ。出征した先輩たちの
魂の拠りどころがなくなってしまうではないか” ・・『60年史』より

戦後、昭和26年に復刊された部誌『蹴球』に、
松本先輩自身が当時を振り返りながら記した文章がある。

“私は即座に「廃められるものなら廃めてみよ、不心得者は退き下がれ!」
と大喝一声したのを覚えている。「松本さん、あとのことは頼みます」と
部の後事を託され、「よし引き受けた」と大部分の酉松会員を戦地に送った
私であった。祖国に捧げた一身は、明日の命も全く計り知れないのに
「一橋蹴球部健やかなれ」と念ずる気持ちを伝えてくれた。私としては
首を切られても「蹴球部を廃止するのもやむを得ない」など男として
言えないことであった” ・・『松本正雄先輩を偲ぶ』 より

部員たちは一旦引き下がったが、どうすることもできなかった。
昭和19年の夏休みを過ぎる頃から本格的な勤労動員が行われ、
部活動は完全に停止。9月、東京商科大学から東京産業大学に改称。
11月24日から翌年の終戦の日まで、アメリカ軍による東京空襲が
106回も続いた。

昭和20年(1945)8月15日 終戦
軍に接収されていた小平グラウンドには、破壊されたサーチライトの
破片が散乱。とても練習ができる状態ではなかった。戦後の混乱と物資も
乏しい中、再び使えるようになるまでには、7年の歳月が必要だった。

昭和9年の春、
小平にサッカー専用グラウンドが完成し、練習を開始。
昭和10年、
現在まで85年にわたって続く関東大学サッカーリーグがスタート。
そして戦争の時代、
先輩の戦死に泣き、自身の応召を待ち、窮乏に耐えながら、戦った。
しかし部は、廃止されるかどうかの瀬戸際まで追い詰められた。
それでも、今につながる一橋大学ア式蹴球部の伝統は、
この時代に培われた。

昭和14年に商大予科に入学した鷺埜和夫(昭19卒)は、
『60年史』に、こう記している。

“大変きつい練習だったが、
当世言われるシゴキとは別世界であった。
きびしい中にも和やかで、のびのびとしたふんい気があり、
それでいて良き秩序が保たれていた。
もともとあまり健康ではなく、
また部に入るまでボールを蹴ったことがなかったので
随分苦痛に感じたものである。
それが最後まで続いたのは、
やはり言うに言われぬサッカー部のふんい気であり、
友情であったと思う”

おそらく部員の中で最も下手な、
そして最もだらしない一員であったと思うが、
その後の人生で心の支えになったのは、
この時代のサッカー部の生活であったことは間違いない”

来年、わが一橋大学ア式蹴球部は創設100周年を迎える。
その記念事業である「小平グラウンド人工芝化プロジェクト」が、
実現まで、あと一歩というところまできている。
ここで、改めてもう一度、小平グラウンドに刻まれた
大先輩たちの艱難辛苦に思いを馳せたいと思う。

以下、次号。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記

この記事へのコメントはこちらのフォームからどうぞ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください