酉松会(ゆうしょうかい)とは、
一橋大学サッカー部の活動を支援するOBの団体で
OB・現役有志の寄稿による「酉松会新聞」の発行、
OB戦やフットサルの開催など様々な活動を行い、
当ウエブサイトで公開しています。

100年史④ 〜 小平G誕生と黄金時代

昭和5年(1930)
9月に 商大本科 は神田一ツ橋から 国立 へ移転した。
当時の写真が卒業アルバムに掲載されているので紹介しよう。


昭和8年(1933)
8月に 商大予科 が石神井から 小平 へ移転するが、グラウンドはまだ使えず
しばらくの間サッカー部は国立の陸上競技場を使用した。

昭和9年(1934)
春からサッカー部は、小平サッカー専用グラウンド で練習をスタートする。
これまで不便と悪条件の中で練習してきた部員は、夢かとばかりに
喜んだという。そしてこの年、東京カレッジリーグ1部 に昇格する。
86年になる小平グラウンドの歴史は、歓喜の中で始まったのだ。


また昭和9年にはサッカー部初の部誌『蹴球』 が創刊され、
昭和17年(1942)の第9号まで続いた。なお余談になるが、第9号は
原稿が集まっていたものの戦時中の混乱の中でで発行されなかった。
しかし、その原稿は0B有志の手で戦後も奇跡的に保管され、昭和57年
(1981)に発刊された。戦前・戦中の大先輩たちの熱い思いが詰まった
部誌『蹴球』の全9巻を当ウェブサイトの左サイドバーに掲載したので、
ぜひお読みただきたい。

昭和10年(1935)
大正13年(1924)より11シーズン続いた東京カレッジリーグが
大学と高等専門学校のリーグに分離し、
現在に続く 関東大学サッカーリーグ がスタートした。
この年、部員は30名を越す大所帯となり、部の運営・練習方法など
新たな工夫が必要となる一方、部員の自信が高まり、
部の伝統が芽生え始めたという。


昭和12年のリーグ戦では全敗し2部に降格するが、
昭和13年には2部で全勝優勝し、すぐさま1部に返り咲く。そして、
昭和15年(1940)、早稲田と同位ながら 関東リーグ1部 準優勝!
我がサッカー部史上最高位の記録で今も破られていない。
まさに黄金時代、輝ける年となった。


ここで触れておきたいことがある。
「酉松会」は、いつ、どういう経緯で発足したのか・・・
以下、『60年史』、『松本正雄先輩を偲ぶ』 を参考に記す。

昭和12年10月21日、チーム再建最大の功労者、長瀬東作が亡くなった。
病身でありながら生活の一切をサッカー部に捧げた彼の精神に感応し、
OBたちが後輩を支援する組織を作った。そしてサッカー部創設メンバーの
1人、川村 通が 「酉松会」 と命名したという。その名の由来については
川村先輩いわく・・

「酉松なんという熟語はもちろんない。つまり新発明だ。
一字ずつの意味ならば、 というのは成熟する、稔る、又は、老ゆ
ということで、それに方角を示す字としては、西という意味をもつ。
はいうまでもなく松の木のこと。そこで 酉松 と続けて、城西の国立
(宮城のほとんど真西にあたる)なる母学の庭の老松ということから
学窓を離れて世に出てもいつまでも変わらぬ同志の心にたとえてみた」

さらに明治天皇が詠んだ歌
「すみし世にかわらぬものは昔より老いたると見し松ばかりにて」 や
昔の「蹴鞠」は競技場の四隅に松の木を植えたことにも因んだという。

発足から82年・・・
「酉松会」に込めた大先輩の深い思いを、もう一度かみしめたい。

以下、次号。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記

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