酉松会(ゆうしょうかい)とは、
一橋大学サッカー部の活動を支援するOBの団体で
OB・現役有志の寄稿による「酉松会新聞」の発行、
OB戦やフットサルの開催など様々な活動を行い、
当ウエブサイトで公開しています。

100年史② 〜震災を乗り越えて〜

大正9年(1920)、東京高等商業学校から大学に昇格し「東京商科大学」と
称するようになった。同年には大学前の通り(現白山通り)に市電が開通し、
「一ツ橋 商科大学前」という停車場もできた。

*現千代田区一ツ橋2丁目*


大正10年(1921)に産声をあげた「商大蹴球團」は、翌大正11年、
日本最初のサッカーリーグである「専門学校蹴球リーグ戦」に参戦した。
商大(現一橋大)・帝大(現東大)・早稲田・東京高等師範学校(現筑波大)の
4チームで試合を行ったが、戦績は不明。

ちなみに日本で最初にサッカーを体操の教材として取り入れたのは筑波大で、
明治19年(1886)のこと。まだラグビーと未分化の状態であったが、明治35年
(1902)にア式蹴球部が創設され、イングランド人の教員が赴任して指導した
明治37年(1904)からサッカーが行われるようになったと伝えられている。
また「専門学校蹴球リーグ戦」に参戦した歴史を持つ一橋大・東大・早大の
3校は、今でも「ア式蹴球部」を名乗っている。

さて、こうして100年の歴史の第1歩を踏み出したサッカー部だったが、
創部からわずか2年後、思いもよらぬ天災に襲われる。
大正12年(1923)9月1日、関東大震災・・・
校舎の大半を消失し、商大キャンパスは廃墟と化した。

大正13年(1924)4月から本科は神田の仮校舎で授業を開始。


予科は石神井に造られた仮校舎に移転し、劣悪なグラウンドで練習を再開した。
当時を知る先輩は「60年史」に、こう記している。

「石神井グラウンドは元イモ畑で凸凹だらけ。
練習前にシャベルで雑草の強い根を除去するのが日課だった。
雨が降れば泥沼となり、乾くと土煙が舞う砂漠と化す。
当時、勢いがあったラグビー部と半面ずつの共用で、肩身が狭かった」


ここまでに掲載した写真は、すべて『写真集 一ツ橋大学百年』より抜粋。
下の2枚の写真は『60年史』とGoogle Earthより。

以下、次号に続く。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記

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