酉松会(ゆうしょうかい)とは、
一橋大学サッカー部の活動を支援するOBの団体で
OB・現役有志の寄稿による「酉松会新聞」の発行、
OB戦やフットサルの開催など様々な活動を行い、
当ウエブサイトで公開しています。

100年史⑦ 〜 春夏の小平合宿が始まる

2020年3月30日  タグ: 沿革   コメントする

昭和21年から30年までの戦績は、以下の通り。

昭和23年(1948)
前年のレギュラーが8名も卒業して技量が低下。部員数も極度に
減少したため毎試合11人揃えるのに苦労し、集まったメンバーを見て
ポジションを決めるという有様で、2部でも全敗して 3部に転落 した。
また主将も不在で一時は部の存続すら危ぶまれる最悪の事態となった。

昭和24年(1949)
本年より学制改革が行われ 、6:5:3:3 から 6:3:3:4 に移行。
5月に東京商科大学から 一橋大学 と改称する。
前年から9人もの部員が卒業し、高校時代の経験者2名に臨時出場を
要請しなければならないほどメンバー集めに苦労したが、予科生が
主体となり、よく耐え、よく忍び、1年で 2部に復帰 した。

“3部転落の憂き目を何とか晴らしたいという全員の熱烈なファイトが
盛り上がり、年間を通じて長雨の泥濘戦ではあったが、5戦5勝
2不戦勝の戦績を挙げ、ついに待望の2部昇格を果たすことができ、
全くの感無量の一言に尽きた。特に3部の中にはやくざ風の者もおり、
試合を投げてグランドに坐りこむ奴もいて全くサッカーを侮辱するもの
と憤慨に堪えず、この点からも3部脱出は商大サッカー部のプレステイ
ッヂの為にもよかったと思った。” ・・『60年史』の記事より

昭和25年(1950)
食料や衣服等を始めとする社会環境が安定の兆しを見せ始め、それに
つれて部員数も増加。総勢24名になり、部活動がやっと軌道に乗る。

昭和26年(1951)
練習は国立のグラウンドで1日おきに午後1時半から日没まで行われる。
日曜は他校との練習マッチやOB戦をできるだけ組み、実戦でチーム力の
アップを図る。当時は麺類とコッペパンはあったが、米飯は配給制だった
ので、各自袋に入れて合宿に参加した。秋のリーグ戦は三鷹の武蔵野
グラウンドが主で、土のグラウンドとしてはよく整備されていたが、
風が吹くと砂塵が舞い上がり、ひどかった。

昭和27年(1952)
春、国立から グラウンドを小平へ 移す。
まだ土がブカブカだったため、練習の前に砂をまき戦時中の軍の
忘れ物である重い「人力ローラー」を引いて締めるのが日課だった。
当初はホッケー部のグラウンドを使わせてもらうこともあり、
完全な状態になるまでには1年以上かかったという。

昭和28年(1952)
戦前にあった部室は軍が小平分校を接収した際に撤去されており、
戦後の部員たちは体育館の用具置き場で着替えていた。しかしこの年、
新しく建設された4棟の一橋寮がオープンし、それまで寮として利用
されていた学生食堂棟の半分が各運動部の部室や合宿所として使える
ようになった。以後、春と夏の合宿を小平で行うことがサッカー部の
長い伝統となっていく。当時は貸蒲団などなく、各自が自宅又は寮から
布団や枕を電車に乗せて持ち込み、食事は寮の賄いに依頼したという。




この頃のサッカー部について、あるOB(昭34卒)は『60年史』に
こう記している。

“わが国のサッカーは、東京オリンピックを一つの契機として
めざましい発展をとげ、極めてポピュラーなスポーツになりましたが、
当時は野球が国民的スポーツで、サッカーはマイナースポーツの1つに
過ぎず、そのため特に学生数の少ない我が校では、高校サッカーでの
経験者も少なく新人にはイロハから教えこむという状況でした。

3~4年で高度な技術を身につけることは並大抵なことではなく、
自づと限界がありますので、技術で及ばない所は体力、気力で補うと
いうのが我々のモットーでした。このため日曜日も含め毎日が練習日で、
ロングと称した多摩湖、国立への往復ランニングはほんとに苦しい
トレーニングでした。”

以下、次号。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記

100年史⑥ 〜 焼け跡からの再建

2020年3月15日  タグ: 沿革   コメントする

昭和20年(1945)8月15日 終戦
軍隊から戻った加藤 省(昭23卒)は『60年史』に、こう記している。

“東京は見渡す限りの焼土であった。はるか向こうまで眼をさえぎるもの
さえなく、焼跡特有の異様な臭気が立ち込めていた。使命感に燃えて
出陣した我々学徒兵にとっては、この祖国の変わり方は精神的に大きな
衝撃であり、敗戦の悲哀をいやという程味合わされた。将来に対する
希望すら失いかけながら、国立に復学届を出しに行き、赤松の林の間に
懐かしい校舎を見、グランドのゴールポストを見た時は胸が熱くなるのを
禁じ得なかった。軍隊で夢にまで見たものが、そのままそこに残っていた
からである。”


昭和21年(1946)
加藤によればサッカー部の再建が始まったのは、この年の春。
「サッカーの練習を始めようや」
そう皆に声をかけたのが、本科3年の 松浦 巌 だった。
昭和13年の全国中学選手権(現高校選手権)で優勝した神戸一中の
センターハーフとして活躍した逸材で、昭和15年に商大予科に入学すると
即レギュラーになり、関東1部準優勝に大きな貢献をした。卓越した技術は
勿論のこと、信頼と包容力を感じさせる頑健な肉体とにこやかな風貌を持ち、
誰からも愛された。通称「がんさん」。さらに加藤の記述を続ける。

“ボールを蹴り、走ってみて現実の厳しさをいやという程感じた。
第一に腹がへってどうにもならぬし、身につける物は軍隊のシャツであり、
地下足袋であり、用具類は無に等しかったからである。そうするうちに
秋にはリーグ戦が再開されることになり、巖さんの本格的な部再建運動が
始まった。空き腹をかかえて練習した後で、松本さんはじめ諸先輩に援助を
お願いし、資材の調達に走り廻ったのであるから、その苦労は並大抵のもの
ではなかっただろう。戦前の学部生としては唯一人残られ、部再建については
使命感を持って居られた。卓抜とした指導力と、稀にみる包容力を発揮され、
我々後輩に部再建の苦労を殆ど気付かせなかった。”

小平グラウンドが使用できない中、松浦の発案で国立にある陸上競技部の
部室の2階を借り、9月中旬から1ヶ月の合宿を行った。食料は芋が主食で、
また合宿費を稼ぎ出すために全員で倉庫会社の荷役のアルバイトに行くなど
今では想像できないような苦労があったが、弾も飛んで来ない、空襲もない
グラウンドでボールを蹴る喜びは、すべての困難を凌駕していったという。

秋、終戦からわずか1年あまりで 関東サッカーリーグ が再開。
神宮競技場が進駐軍に接収されていたため、試合は帝大の御殿下グラウンド
で行われる。各チームとも選手不足に悩みメンバー編成に苦労した。戦争の
長いブランクを埋めるため大学院に籍を置く学生も多く、この年は特別に
大学院の学生も出場することができた。

我が部は 東京産業大学(昭和19年に改称)として 1部リーグ に参加したが、
チーム編成に大きな問題を抱えていた。他大学に比し部員がもともと少ない
上に地方出身者が多く、折からの住宅難・食糧難が彼らの上京を殆ど不可能
にしていたのである。幸いにも専門部の学生や、松本高校出身の外岡、
東京外語出身の森重の参加を得て、ようやく体裁を整えた。しかし質量ともに
劣勢なのは否めず、1勝4敗5位 。かろうじて残留するのが精一杯だった。

昭和22年(1947)
旧名の 東京商科大学 に戻る。
チームの中核であった松浦の卒業の穴は大きく、また戦後の急激な
インフレや食糧難による混迷はフルメンバーでの練習を益々困難にした。
リーグ戦は全敗で 最下位 となり、2部に降格
以後、我が校の名前は関東リーグ1部から消える。

終戦直後の苦難の時代に部の再建を牽引した、松浦 巌(昭22卒)。
“がんさん”は、どんな思いだったのか・・
最後に、松浦が部誌『蹴球』第9号に寄せた文章を紹介しよう。
昭和17年、予科の主将として松浦はリーグ戦を戦ったが、チームは
最下位に沈み2部に降格してしまった。その時の気持ちを率直に綴っている。


“予科の人に言ひたい事は、皆其々種々な苦しい事に出逢ふ時が
あるだろうけれども其を押し切ってやって行く物は何か、
其は蹴球と蹴球部に対する愛であり、其は何処から出て来るかは
其の人が飽迄部に練習に喰付いて自分を投げ込んでやるの他はない。

自分にとって苦しかった予科時代を省みると、二年になって
蹴球だけで此の学校時代を過ごして良いのかと云ふ反省が起きた。
(三年になると)主将としての重大な責任と、又春に変わった
リーグ戦の猛練習とで喘ぎ喘ぎの気持ちであった。部を辞めて
自分のやりたい勉強にじっくりひたりきるべきかと考へた事もあった。

併し其には自分の気持ちに絶対許せぬものがあった。
俺と云ふ人間の内に蹴球部が喰込んでゐる。
其を棄てる事は自分が半分に裂かれるのも同然だと云ふ気持である。

病気になったり足を挫いたりして部全体に全く詫びのしようのない
済まない事をして了った。二部に落ちたのは凡て自分の責任であると
本三の方々の顔を見る度に心の底で刺される様な気持ちがする。

吾々は蹴球部と云ふ真に自分の一身を投込んでやる行動の場を
持ってゐる。本当に自己を捧げ切って行動する場を持たない人間は
ロボットの様な存在だ。此の烈しい時勢の中にあって、且又日本の
将来を決すべき時にあたって本当に働くものは、真に行動する場を
通じて体験され、生み出されてきた物でなければならない。
吾々の練習も勉強も部生活も此でなくてはならないと思ふ。”

“がんさん”は、誰よりも1部優勝を願い、厳しく自己を律し、
そして、誰よりもサッカーとサッカー部を愛した男だった。
昭和55年(1980)11月28日、
兼松江商の社長在任中に急逝。享年59。

振り返れば・・
戦前戦中戦後、サッカー部は幾度も危機に襲われた。
しかし我が部には、強い使命感と責任感を持って乗り越えようとした
部員とOBの存在が、常にあったのだ。

創設メンバーであり、後輩たちを物心両面で支え続けた、松本正雄 ・・
病を押し、部をどん底から救った、長瀬凱昭(東作)・・
部の再建に、全身全霊を捧げた、松浦 巌 ・・

彼らがいなかったら、一橋大学ア式蹴球部100年の歴史は、
まったく違ったものになっていたかも知れない。
3人の偉大なる先輩に、心から感謝の気持ちを捧げる。
現役時代に彼らの存在に気づけなかった、痛恨と共に。

以下、次号。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記

100年史⑤ 〜 伝統は戦争の時代に培われた

2020年3月2日  タグ: 沿革   コメントする

昭和15年(1940)、商大サッカー部は関東大学リーグ1部で
準優勝を果たし、サッカー部史上最高位の大記録を打ち立てた。
しかしその黄金期は、戦争の時代でもあった。

昭和12年に日中戦争が始まり、昭和16年には太平洋戦争に突入。
そし終戦に至るまでの間、多くの先輩たちが戦場で命を落とした。
昭和14年刊の部誌 『蹴球』 第6号は、中支戦線で戦病死した
荒井文雄(昭12卒)の追悼号になっている。また下右の昭和13年の
写真には軍服姿のOB(多分)2人が写っている。


この激動の時代を、『60年史』を参考にしながら、
さらに詳しく辿ってみよう。

昭和15年(1940)
学生の徴兵は26歳まで猶予されていたが、徐々に戦時色が部生活に
波及してきた。ユニホームはペラペラのスフ(staple fiber の略
化学繊維のこと)で、サッカー靴も牛皮から豚皮になる。
(のちには馬皮、ついには鮫皮に)

“ボールはさすがに牛皮だったが、練習の時のボールは皮が薄くなって
倍くらいに膨れ上がった代物。軽くて大きいため蹴ってもスピードが出ず、
風が強いとあらぬ方向に流されていく。極端に言えば風船玉の固いものと
思えば良い” ・・鷺埜 和夫(昭19卒)


昭和16年(1941)
この年の関東リーグ1部は9月28日に明治神宮外苑競技場で開幕。
最終戦は11月2日で、その1ヶ月後の12月8日、日本は太平洋戦争に
突入した。すでに学生の徴兵猶予は撤廃され、同年10月に大学・専門
学校の修業年限が3ヶ月間短縮。12月に卒業となった学生を対象に
徴兵検査が行われ、合格者は翌年2月に入隊。大学生にとっては、
卒業即軍隊生活の時代になっていく。


昭和17年(1942)
予科も修業年限が6ヶ月間短縮され、9月卒業、10月入隊の措置が
取られる。このため毎年秋に行われていた関東大学リーグ戦は、
春に実施されることになった。3月末に合宿し3試合ほど練習試合を
行い4月29日に開幕というあわただしい空気の中、商大は奮闘したが
最下位となり2部に降格してしまう。


昭和18年(1943)
4月、戦局の激化に伴い予科の修業年限が2年となる。
5月に行われた関東リーグ2部の試合に参加したのは、わずか4校。
商大は3戦全勝して見事1部復帰を果たす。


10月には卒業までの徴兵猶予が撤廃され、20歳以上の文科系学生が
在学途中で徴兵される。そして10月21日、関東大学サッカーリーグが
開催された明治神宮外苑競技場(現国立競技場)において、
7万人に及ぶ関東地方の入隊学徒の「出陣壮行会」が挙行された。


また運動部にも数々の制約が加えられ、ラグビー以外の外来スポーツが
禁止になる。サッカー部は冬から「滑空班(グライダー部)」として
活動し、再びボールを蹴る日に備えて体力の維持増強に努めたというが、
密かにボールを蹴っていたと思われる記述もある。

“我々は部生活の根を残すことを考え、サッカー部を中心として滑空班を
組織した。ところが練習用のプライマリーグライダーは第1回の練習で
壊れてしまい、修理に出したはずが遂に戻ってこなかった。私たちは保管
してあったボールを持ち出してサッカーを始めた。靴も不足していたので
全員裸足で蹴っていたが、それで結構面白かった” ・・高柳 晋(昭23卒)

昭和19年(1944)
3月に小平の予科校舎が軍に接収され、学生は国立へ。
以後、運動部の練習の本拠は国立の陸上競技場と野球場になる。
しかし「出陣学徒壮行会」以降、学生が続々と入営し、サッカー部員は
わずか7〜8名。事実上チーム編成が不可能になった。他の大学も同様の
状況で、リーグ戦も中止となる。やむなく休部を決意した部員たちは、
サッカー部創設メンバーの1人であり、後輩たちを物心両面で支えていた
大先輩、松本正雄(大正15卒)に相談したが、ひどく叱られたという。

“君らは何を言うんだ。出征した先輩たちの
魂の拠りどころがなくなってしまうではないか” ・・『60年史』より

戦後、昭和26年に復刊された部誌『蹴球』に、
松本先輩自身が当時を振り返りながら記した文章がある。

“私は即座に「廃められるものなら廃めてみよ、不心得者は退き下がれ!」
と大喝一声したのを覚えている。「松本さん、あとのことは頼みます」と
部の後事を託され、「よし引き受けた」と大部分の酉松会員を戦地に送った
私であった。祖国に捧げた一身は、明日の命も全く計り知れないのに
「一橋蹴球部健やかなれ」と念ずる気持ちを伝えてくれた。私としては
首を切られても「蹴球部を廃止するのもやむを得ない」など男として
言えないことであった” ・・『松本正雄先輩を偲ぶ』 より

部員たちは一旦引き下がったが、どうすることもできなかった。
昭和19年の夏休みを過ぎる頃から本格的な勤労動員が行われ、
部活動は完全に停止。9月、東京商科大学から東京産業大学に改称。
11月24日から翌年の終戦の日まで、アメリカ軍による東京空襲が
106回も続いた。

昭和20年(1945)8月15日 終戦
軍に接収されていた小平グラウンドには、破壊されたサーチライトの
破片が散乱。とても練習ができる状態ではなかった。戦後の混乱と物資も
乏しい中、再び使えるようになるまでには、7年の歳月が必要だった。

昭和9年の春、
小平にサッカー専用グラウンドが完成し、練習を開始。
昭和10年、
現在まで85年にわたって続く関東大学サッカーリーグがスタート。
そして戦争の時代、
先輩の戦死に泣き、自身の応召を待ち、窮乏に耐えながら、戦った。
しかし部は、廃止されるかどうかの瀬戸際まで追い詰められた。
それでも、今につながる一橋大学ア式蹴球部の伝統は、
この時代に培われた。

昭和14年に商大予科に入学した鷺埜和夫(昭19卒)は、
『60年史』に、こう記している。

“大変きつい練習だったが、
当世言われるシゴキとは別世界であった。
きびしい中にも和やかで、のびのびとしたふんい気があり、
それでいて良き秩序が保たれていた。
もともとあまり健康ではなく、
また部に入るまでボールを蹴ったことがなかったので
随分苦痛に感じたものである。
それが最後まで続いたのは、
やはり言うに言われぬサッカー部のふんい気であり、
友情であったと思う”

おそらく部員の中で最も下手な、
そして最もだらしない一員であったと思うが、
その後の人生で心の支えになったのは、
この時代のサッカー部の生活であったことは間違いない”

来年、わが一橋大学ア式蹴球部は創設100周年を迎える。
その記念事業である「小平グラウンド人工芝化プロジェクト」が、
実現まで、あと一歩というところまできている。
ここで、改めてもう一度、小平グラウンドに刻まれた
大先輩たちの艱難辛苦に思いを馳せたいと思う。

以下、次号。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記

酉松会新聞 第13号 発刊!

2020年3月1日  タグ: お知らせ   コメントする

令和になって初めての酉松会新聞、第13号の発刊です。
上は70代から下は10代まで、投稿してくださった方々に感謝です。
ラインアップは以下の通り。じっくりお読みください。

巻頭挨拶
⚽️ 緒方 徹 (昭49卒 会長):2020年に寄せて

小平G人工芝化への期待
⚽️ 神谷 佳典(平7卒):人工芝プロジェクトの進捗状況

百年史秘話
⚽️ 福本 浩 (昭52卒):戦争の時代 〜 部存続の危機

戦いを終えて
⚽️ 右田 大河(4年 主将):困難
⚽️ 高山 修也(4年 GM):信じていること
⚽️ 石田 洸 (4年):4年間の思い出
⚽️ 尾高 洸祐(4年):記憶に残る瞬間
⚽️ 城所 知希(4年):サッカー以外なんもありませんでした
⚽️ 小杉 直輝(4年):夢に見る試合
⚽️ 深井 雄太(4年):ア式人生の集大成
⚽️ 森山 裕理(4年):早起きは辛くなかった
⚽️ 藤井 俊輔(4年):やってみて気づいた地域貢献の意義
⚽️ 大澤 敦 (4年):4ヶ月越しの対面

令和2年度シーズンに向けて
⚽️ 山本 健太(3年 新GM):「懸」 全身全霊を捧げ、1部へ

海外便り
⚽️ 重満 紀章(平7年):グッドモーニング、ベトナム

自由テーマ
⚽️ 村上 仁 (昭52卒):サッカー部OBとは言い難いOB?
⚽️ 小林 治 (昭53卒):海外で出会うサッカー部の不思議な縁
⚽️ 進藤 潤耶(平11卒):オーバーエイジは必要! VARには制限を!

私の学生LIFE
⚽️ 斎藤 五樹(4年):「FC ◯◯」
⚽️ 石川 晃 (4年):事件のにおい、ぷんぷん
⚽️ 下地 政太(4年):僕のア式飲み会人生
⚽️ 杉山 恭平(4年):メキシコが呼んでいる
⚽️ 中西 望 (4年):温泉としゃぶしゃぶ
⚽️ 渡邉 友彬(4年):私をご飯に連れてって
⚽️ 菅家 恵 (4年MG):ア式独自文化
⚽️ 下川 葵 (4年MG):現役時代のオフの過ごし方
⚽️ 河原 岳大(2年):束の間の休息
⚽️ 山口 健介(2年):不足

追悼
⚽️ 田中 好輔(昭41卒):故清水征四郎君の霊に捧げる
⚽️ 高峯 文世(昭43卒):一橋ア式蹴球部のレジェンド 清水さん
⚽️ 緒方 徹 (昭49卒)/ 山崎 彰人(昭49卒)/ 加藤 富朗(昭52卒)

編集後記
⚽️ 福本 浩 (昭52卒 編集長):試練の年、だからこそ!

100年史④ 〜 小平G誕生と黄金時代

2020年2月17日  タグ: 沿革   コメントする

昭和5年(1930)9月
商大本科は神田一ツ橋から国立へ移転した。
当時の写真が卒業アルバムに掲載されているので紹介しよう。


昭和8年(1933)8月
商大予科が石神井から小平へ移転するが、グラウンドはまだ使えず
しばらくの間サッカー部は国立の陸上競技場を使用した。

昭和9年(1934)春
サッカー部は 小平サッカー専用グラウンド で練習をスタートする。
これまで不便と悪条件の中で練習してきた部員は、夢かとばかりに
喜んだという。そしてこの年、東京カレッジリーグの1部に昇格する。
86年になる小平グラウンドの歴史は、歓喜の中で始まったのだ。


また昭和9年にはサッカー部初の部誌『蹴球』 が創刊され、
昭和17年(1942)の第9号まで続いた。なお余談になるが、第9号は
原稿が集まっていたものの戦時中の混乱の中でで発行されなかった。
しかし、その原稿は0B有志の手で戦後も奇跡的に保管され、昭和57年
(1981)に発刊された。戦前・戦中の大先輩たちの熱い思いが詰まった
部誌『蹴球』の全9巻を当ウェブサイトの左サイドバーに掲載したので、
ぜひお読みただきたい。

昭和10年(1935)
大正13年(1924)より11シーズン続いた東京カレッジリーグが、大学と
高等専門学校のリーグに分離し、現在に続く 関東大学サッカーリーグ
スタートした。この年、部員は30名を越す大所帯となり、部の運営・
練習方法など新たな工夫が必要となる一方、部員の自信が高まり、
部の伝統が芽生え始めたという。


昭和12年 のリーグ戦では全敗し2部に降格するが、
昭和13年 には2部で全勝優勝し、すぐさま1部に返り咲く。そして
昭和15年(1940)、早稲田と同位ながら 関東リーグ1部 準優勝!
我がサッカー部史上最高位の記録で今も破られていない。まさに黄金時代、
輝ける年となった。



ここで触れておきたいことがある。
「酉松会」は、いつ、どういう経緯で発足したのか・・・
以下、『60年史』、『松本正雄先輩を偲ぶ』 を参考に記す。

昭和12年10月21日、チーム再建最大の功労者、長瀬東作が亡くなった。
病身でありながら生活の一切をサッカー部に捧げた彼の精神に感応し、
OBたちが後輩を支援する組織を作った。そしてサッカー部創設メンバーの
1人、川村 通が 「酉松会」 と命名したという。その名の由来については
川村先輩いわく・・

「酉松なんという熟語はもちろんない。つまり新発明だ。
一字ずつの意味ならば、>酉 というのは成熟する、稔る、又は、老ゆ
ということで、それに方角を示す字としては、西という意味をもつ。
はいうまでもなく松の木のこと。そこで 酉松 と続けて、城西の国立
(宮城のほとんど真西にあたる)なる母学の庭の老松ということから
学窓を離れて世に出てもいつまでも変わらぬ同志の心にたとえてみた」

さらに明治天皇が詠んだ歌
「すみし世にかわらぬものは昔より老いたると見し松ばかりにて」 や
昔の蹴鞠は競技場の四隅に松の木を植えたことにも因んだという。

発足から82年・・・
「酉松会」に込めた大先輩の深い思いを、もう一度かみしめたい。

以下、次号。

酉松会新聞編集長 福本 浩(昭52卒)記